安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

蓮如上人の御文章にある「五重の義」について教えてください。あるところで聞いた話では、「五つのものがそろわないと助からないから、まず最初の宿善が大事だ」とのことでした。これで正しいのでしょうか?(頂いた質問)

蓮如上人の御文章にある「五重の義」について教えてください。あるところで聞いた話では、「五つのものがそろわないと助からないから、まず最初の宿善が大事だ」とのことでした。これで正しいのでしょうか?(頂いた質問)

私も同じような話を、以前あるところで聞いていましたので質問された方のご不審はごもっともだと思います。


結論からいいますと、少なくとも親鸞聖人の教えを現在聞こうとしている人、浄土往生を遂げたいと願っている人にたいして「宿善が大事だから、まずは宿善」と蓮如上人はいわれていません。


今回はこの五重の義について「蓮如上人遺文」に分かりやすく書いてあるので、それに沿って書いていきます。


この「蓮如上人遺文」は、今日のところ真偽不明とされているので本当に蓮如上人のお言葉かどうかはわかりません。ただ、書いてある内容は五重の義の解説としては大変詳しく書かれてあるの紹介します。今回紹介する箇所は、御文章概要ー蓮如教学の中心問題ー稲城選恵著に引用された箇所から転載したものです。やや長文になるので、今回のエントリーの最後に引用部分の全てをまとめておきます。


それでは、最初から少しずつ解説をしていきます。

浄土の法門念仏の一行をこころうるに五重あり。この五重をはこばずして法門をのぶれば衆生をあやまつなり。その五重といふは一には宿善なり。無宿善のものは浄土教にあはず。(蓮如上人遺文 (1948年)_稲葉昌丸編集_P530-P533)

(大意)浄土真宗の教えをこころうるのに五つのものがある。この五つをいわずに教えを伝えるならば聞いた人は間違ってしまう。その五つはなにかというと、一つには宿善である。無宿善の者は浄土の教えにあうことはない。


「浄土教」といわれているのは、阿弥陀仏の本願の教えであり、真宗の人にしてみれば浄土真宗・親鸞聖人の教えです。「無宿善のものは浄土教にあはず」とあるので、その意味では現在親鸞聖人の教えを聞いている人、そして浄土往生したい、阿弥陀仏の救いにあいたいという心になっている人は、皆「宿善のある人」です。


その意味で、現在真宗の教えを聞いている人に対して「まずは宿善が大事ですよ」「宿善がなければなりません」と主張するのは大変おかしなことになります。なぜなら、すでに浄土教にあっている人(無宿善ではない人)にむかってそのようなことを言うとするならば、以下の可能性が考えられます。

1.その人が聞いている教えが「浄土の教えではない」場合

この場合は理屈としては通りますが、「浄土真宗」を名乗る場所の法話で、そのようなことを主張するのは全く自己矛盾といわざるをえません。看板をみて「浄土真宗」を聞きに来た人に、「宿善が大事ですよ」と主張することは、そのまま「あなたが現在聞いている教えは浄土真宗ではありませんよ」と言っていることになるからです。つまり「浄土真宗」を看板に掲げている法座で、「浄土真宗ではない話」がなされているということです。
こう書くと「そんなおかしな団体があるのか?」と思われる方もあると思いますが、私がかつていたところはそんな団体でした。

2.「宿善」を往生の因と勘違いしている場合

御文章の「五重の義」は、蓮如上人当時の十劫安心や善知識だのみといった間違った教えをただして、信心正因が親鸞聖人の教えだと明らかにされたものです。
往生の因は、信心正因ですからあくまで信心です。それを「善知識」が因であるかのように教え、考えるのが「善知識だのみ」です。あくまでの善知識は「縁」であって、「因」ではありません。同様に御文章に書かれる「宿善」も、往生の「縁」であっても「因」ではありません。にもかかわらず、「まずは宿善」と主張すると、聞いた人は「宿善がなければならない→宿善が往生の必要不可欠条件→往生の因」と思います。実際、私が過去にいた団体ではみなそのように理解していました。しかし、くりかえしになりますがそれは往生の「因」と「縁」を混同した間違いです。あえていうなら「宿善だのみ」の異義ということになります。


御文章遺文を転写するのに時間がかかったので、続きはまた明日エントリーします。よろしくお願いします。以下に、蓮如上人遺文より五重の義解説部分を転写します。

蓮如上人遺文(五重の義解説部分)

浄土の法門念仏の一行をこころうるに五重あり。この五重をはこばずして法門をのぶれば衆生をあやまつなり。その五重といふは一には宿善なり。無宿善のものは浄土教にあはず。二には遇善知識なり。こころは宿善のひとはかならず善知識にあふて法をきく。三つには光明に摂取せらる。善知識にあふて本願のおこりをきくとき、弥陀如来もとより無碍光仏とあらはれたまふ故に、行者の心想のうちに影現したまふなり。このとき無始已来輪転妄業の重罪、摂取の心光に照護せられて、転じて功徳なり。すなはち往生の大益を証得すなり。四つには信心獲得す。さきの光明智相に行者の心身を摂取せらるるゆへに、はからざるに信心を生ず。これさらに行者の信にあらず。五にはさきの信心より催促せられて、口に名号をとなふ。これまたかつて行者の行にあらず。仏の無碍智より信心を生じ信より名号を生ぜしむ。この信心と名号とは仏恩報謝のために仏智よりもよほされたてまつりて行ずるなり。この念仏をもて往生のためとはおもふべからず、そのゆへに三重の光明にてらされたてまつるとき、仏智は摂して凡心にいり、凡心はさって仏心に帰す。仏智難思の光明に帰托したまふとき、往生の大益を証得しぬるうへにはみづからも信じ、人をおしへても信ぜしむるも信行ともに仏恩報謝のつとめなり。……いま宿善にもよほされて、善知識にあふてこのことはりをきゝ、知識にあふとき摂取の光益におさめとられまつりて、光明智相より名号をもよほされたてまつりて、釈迦弥陀十方諸仏の恩徳を報謝したてまつるとこゝろうべし。名号をとなへて往生のためとおもむくべからず。しかれば往生は如来の摂取にまかせ、名号をば仏恩報謝にそなふべし。この信行はかつて行者の信にあらず、行者の行にあらず、無碍光仏の大信大行なり。この信行をうれば生死即涅槃なり。煩悩すなはち菩提なり。生死即涅槃、煩悩即菩提のいわれを、この土にしてわれとさとらんとはげむを聖道門といふ。権者修行の法門なり。仏智帰托によりて信行をうればかの土にいたりて大涅槃のさとりをひらく。これを他力というなり。(蓮如上人遺文 (1948年)_稲葉昌丸編集_P530-P533)