安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

宿善がないと助からないんですか?→法然上人「無宿善でも往生します」(頂いた質問)

顕真の連載記事「宿善と聴聞と善のすすめ」ー弥陀の救いに値うまでーをずっと読んでいます。書いてあることはよくわからないのですが、タイトルにもあるように、「弥陀の救いに値うまで、宿善と聴聞と善のすすめが必要」なのでしょうか?とくに、宿善がないと助からないのでしょうか?(頂いた質問)

「宿善=過去世の善根」と限定した場合、宿善の無いものは救われないとするならば、「無宿善の者」は、まず善根を積み重ねることから始めなければなりません。

では、無宿善の者は救われないのか?といえば、法然上人は無宿善の者でも救われるといわれています。

弥陀は悪業深重の者を来迎し給ふちからましますと、おぼしめしとりて、宿善のありなしも沙汰せず、つみのふかきあさきも返りみず、ただ名号をとなふるものの、往生するぞと信じおぼしめすべく候。(拾遺語灯録・巻下・往生浄土用心*1

阿弥陀仏は、悪業が深く重い者を救って下さるので、宿善の有る無しは問題にされないし、罪の深い浅いも眼にかけられず、ただ名号を称えるものは往生すると信じなさいと教えられています。

大事なことは「何によって救われるのか」ということです。「過去の善根(宿善)」で救われるのではなく、名号のお働きで救われるのです。
どんな者でも救うという本願によって成就した名号には、私の罪がどれだけ深いか、過去の善根がどれだけ有るかは問題になりません。

もし、私の善根が不足しているから名号でも助けることができないとなれば、私の方で不足している分の善根を加える必要があります。しかし、南無阿弥陀仏には私の方で加えるものは何一つありません。

しかし、親鸞会で話を聞いている人、特に「教学試験」を真面目に受けている人は、

ただし無宿善の機にいたりてはちからおよばず。(御文章4帖目8通)

を覚えて、「無宿善の者は助からない」と考えておられると思います。

ここで蓮如上人がいわれているのは、この世に南無阿弥陀仏で救えない人がいるということではありません。蓮如上人の布教精神からいわれていることです。
蓮如上人は、生涯争いを好まれなかった方です。ご布教においても、「これが正しいのだから、とにかく聞きなさい」と押しつけるようなことはなさいませんでした。もちろん、親鸞聖人の教えを乱す者に対しては徹底して破られましたが、いわゆる聞く気がそもそもない人にまで、押しつけるようなことをなさいませんでした。

その一例が、御文章に書かれています。

むつかしき題目なんども出来あらんときは、すみやかにこの在所において執心のこころをやめて、退出すべきものなり。(御文章4帖目15通)

「むつかしき題目」というのは、当時の日蓮宗の人が、念仏の教えをいろいろと攻撃していました。それに対して、彼らと争ってはならない、もしやってきたからこちらからその場所を去りなさいと言われています。日蓮宗の人に念仏の教えを強要するようなことはされませんでした。

ここで「無宿善の機にいたりてちからおよばず」といわれたのは、「どうにも聞く気が起きない者、関心をもたない人」に対して、争ってまで「自分は正しい」と主張されなかった蓮如上人の布教精神からいわれたものです。


真宗の伝道は、自信教人信が基本です。自ら信じるのが先です。その信がない上に、「自らの主張が正しい」と言って人の強要するのは、御文章に言われる「執心のこころ」です。それは争いの元となるだけでなく、「これが正しい」と執着するようなものはそもそも真実ではありません。

今回紹介した法然上人のお言葉での「宿善」は、過去世の善根です。しかし、今回紹介した蓮如上人のお言葉での「宿善」は、「仏法を聞こうという心」です。

「救われる為の善根」という意味では「曽無一善」だとしても、南無阿弥陀仏のお働きは必ず救って下さいます。
また、こうやって仏法を聞き、阿弥陀仏に救われようという人は「無宿善(仏法に全く関心がない、聞く気がない)」である筈がありません。

必ずただ今救われます。

*1:浄土宗全書:第九巻P649・リンク先は浄土宗全書検索システム