安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「お寺に行って、厄よけをする事が往生とはまったく無関係な事を、本人が完全に理解した上でそれらの行為をするのは問題ないのではないでしょうか。」(ぱるるさんのコメントより)

前回のエントリーにぱるるさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

ぱるる 2013/02/21 19:58
天神地祇に浄土往生の救いを求めるのは間違いだとしても、天神地祇は仏法をふかく信ずる人を守ってくださるので、健康祈願などを熱心にした場合、浄土真宗として矛盾するでしょうか。


yamamoya 2013/02/22 21:07
ぱるるさん

仏法を信じる人を守護するものとして感謝をすることはあっても、健康などで祈願をするのはやはり間違いです。
仏号むねと修すれども 現世をいのる行者をば これも雑修となづけてぞ 千中無一ときらはるる (高僧和讃 浄土真宗聖典(註釈版)p.590)と言われています。


ぱるる 2013/02/23 04:14
yamamoya様

その辺りがよく分かりません。
例えばお寺に厄よけに行く場合、それが往生の足しになると思っているのなら、完全な間違いなので捨てなければなりません。

けれどもお寺に行って、厄よけをする事が往生とはまったく無関係な事を、本人が完全に理解した上でそれらの行為をするのは問題ないのではないでしょうか。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130220/1361302165#c1361534845


基本的に真宗寺院に厄除けをするところがあるとは思えません。
お寺で厄除けというのは、それ以外の寺のことを指していわれているのだと思います。
そこで、厄除けは後生と無関係であるということは仰る通りです。しかし、厄除けでいわれる「厄」については元々仏教ではいわないものです。よくいわれる「厄年」も、何が起源となっているのか、陰陽道ともいわれますが出所はよくわからないそうです。


そうなると厄年も、いわゆる「日の善し悪し」ですからこれは仏教ではいわないことです。言葉を変えれば仏教では存在しないものが日の善し悪しです。存在しないものを払いに行くことは、そもそも意味がありません。問題があるかないかというよりも意味がないという方が正解です。


御文章にも、念仏者に限らず仏法を信じる人は日の善し悪しをみてはならないと書かれています。

しかりといへども、仏法を修行せんひとは、念仏者にかぎらず、物さのみいむべからずと、あきらかに諸経の文にもあまたみえたり。まづ『涅槃経』にのたまはく、「如来法中無有選択吉日良辰」といへり。この文のこころは、「如来の法のなかに吉日良辰をえらぶことなし」となり。(御文章1帖1通)


健康祈願についても、どれほど祈願をしても病気になるときはなります。どれほど日ごろ健康維持管理に気をつけていたも同じことです。健康になって欲しいというのが阿弥陀仏の願いではありません。阿弥陀仏の本願は、私を浄土往生させ仏に生まれさせることです。


もちろん健康であることは有り難いことですが、それを神に祈願することは健康でさえあればいいという私の願いの話になります。私の願いよりも阿弥陀仏の願いを常に聞くというのが、親鸞聖人の教えられた浄土真宗です。