安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

罪とか悪に実体がないなら、地獄も無いのでしょうか?(リモさんのコメントより)

前回のエントリーに、リモさんよりコメントを頂きました。

リモ 2014/07/31 05:11
yamamoyaさんへ

>罪とか悪には実体がない
地獄も無いのでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20140730/1406705214#c1406751109

浄土真宗では、地獄に堕ちるかどうかというより「浄土往生できるか否か」といいます。では、浄土往生できなかったらどうなるかと言えば、親鸞聖人は曠劫を経歴せんと言われています。

そのように言われるのも、私が考える生とか死というものは全て私が考える虚構のものだと教えられています。その考えで私が想像する地獄は全て虚構のものです。もっと言えば、現在私が住んでいるこの世界も私の想念が生み出した虚構の世界です。



そんな私が浄土往生と聞いても、迷った考えでの生死しか想像できません。そのことを、曇鸞大師の浄土論註では以下のように言われています。引用箇所の前には、浄土に「生まれる」というなら「死んだ」ことに対する言葉ではないか?また、浄土に「往く」ならそれは来るに対する言葉であって、そのような対立概念を持ち出すのは迷いの考えであって、そこに悟りということは出てこないのではないかという自問自答があります。


その後に続くご文が以下のものです。

かの浄土はこれ阿弥陀如来の清浄本願の無生の生なり。三有虚妄の生のごときにはあらざることを明かすなり。なにをもつてこれをいふとならば、それ法性は清浄にして畢竟無生なり。生といふはこれ得生のひとの情なるのみ。 (浄土論註 浄土真宗聖典―註釈版 (七祖篇)

http://goo.gl/6SfjeC

簡単な意味をいうと、浄土とは阿弥陀仏の本願によって生まれるのだから、私が考える「生まれる」ではないから「無生の生」というのです。なぜそういうのかと言えば悟っていない人には分からないので、私に分かることばで「生」といわれているのです。それは、私に分かるようにしたというだけで、実際は違います。


地獄も阿弥陀仏に救われない人にとっては「確実にあるもの」です。しかし、阿弥陀仏の救いにあう人にとっては、あってもないものということになります。