安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「我々は生死の凡夫なのかそうでないのか。生死の凡夫であると書かれているところあるし、生死の凡夫かわ、とかわ=そうではない、と言われる所があります。」(tomida makotoさんのコメントより)

tomida makotoさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

tomida makoto 2015/07/02 06:53
今日のエントリーにお願いします。
我々は生死の凡夫なのかそうでないのか。
生死の凡夫であると書かれているところあるし、生死の凡夫かわ、とかわ=そうではない、と言われる所があります。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20150630/1435652685#c1435787586

コメントのご和讃は以下のものだと思います。

超世の悲願ききしより
 われらは生死の凡夫かは
 有漏の穢身はかわらねど
 心は浄土に遊ぶなり(帖外和讃)

まず「我々は」と言われていることについてですが、浄土真宗においては、阿弥陀仏に救われた人も、救われていない人も「凡夫」です。それは親鸞聖人もいわれているところです。

では、なぜ上記のご和讃では「超世の悲願ききしより われらは生死の凡夫かは」と言われたのかと言いますと、一度阿弥陀仏の本願(超世の悲願)を聞いた人は、生死を繰り返さないで、浄土往生するからです。

生きている間は、阿弥陀仏に救われる以前と変わりませんが、浄土往生を遂げるという点で「我々」は生死の凡夫ではありません。