安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

十劫安心とは(ぶりままさんのコメントより)

ぶりままさんからコメントを頂きました。有り難うございました。

十劫安心とはどういうものかについて教えて頂きたいと思って質問をしました。(ぶりままさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100421/1271798657#c1271859278

十劫安心について、御文章に出ているところを紹介します。

このゆゑにその信心の相違したる詞にいはく、「それ、弥陀如来はすでに十劫正覚のはじめよりわれらが往生を定めたまへることを、いまにわすれず疑はざるがすなはち信心なり」とばかりこころえて、弥陀に帰して信心決定せしめたる分なくは、報土往生すべからず。さればそばさまなるわろきこころえなり。これによりて、当流安心のそのすがたをあらはさば、すなはち南無阿弥陀仏の体をよくこころうるをもつて、他力信心をえたるとはいふなり。(御文章3帖目8通・不廻向

十劫安心とは、阿弥陀如来が十劫の昔に正覚を成就され、私の往生を定めて下さったことを、忘れず疑わないことが信心であるという考えです。法蔵菩薩が、私を救おうと五劫思惟されて願を建てられ、兆載永劫の修行によって、正覚を成就され、私の救われる道理はすでに完成しているのだから、それを忘れず疑わないことが信心であるという主張です。

お尋ねのコメントの趣旨から言えば「忘れず疑わないのが信心」というのが、十劫安心です。
私が心得たのが信心であり、別の言葉で言えば知った、分かったのが信心であるという考え方です。
それに対して蓮如上人は「弥陀に帰して信心決定せしめたる分なくは、報土往生すべからず」「南無阿弥陀仏の体をよくこころうるをもつて、他力信心をえたるとはいふなり」と言われています。

「忘れず疑わない」と「南無阿弥陀仏をこころうる」の違い

信心とは、本願に疑いのないことと聞くと、「忘れず疑わないこと」なのだろうと思う人があります。しかし、それは信心ではありません。
「忘れず疑わないこと」は、言葉を換えれば「疑問がないこと」です。よく分かりましたと、知ったことです。これは、私が分かったという私の心のありさまを述べているだけで、真実信心ではありません。

南無阿弥陀仏をこころうるとは、自力を捨てて弥陀をたのむことです。阿弥陀仏が、私を助けようというお働きには疑いがありません。そのお働きを南無阿弥陀仏といいます。南無阿弥陀仏に、私の方から「わかった」とか「疑問がありません」から大丈夫という自力の計らいを持ち出さず、南無阿弥陀仏一つに救われるのが信心です。
これを南無阿弥陀仏をこころうると言われています。

まとめますと、十劫安心は、南無阿弥陀仏に「私が忘れず疑わない」を付け加えたことを信心というものです。
真実信心は、南無阿弥陀仏に、「私が忘れず疑わない」を付け加えないものです。「私が忘れず疑わない」の自力を捨てて、弥陀をたのむのが真実信心です。南無阿弥陀仏の体をよくこころうることです。

追記(2010/04/23 10:36追記)

質問のコメントについてきらきらさんからコメントを頂きました。
同じ質問についてのことなので、ここに追記します。

>本記事で仰っている信心と所謂十劫安心と言われるものとの違いは何なのでしょうか?

というご質問について、そのままの意味としたら教義安心面からどのように思われますでしょうか。(きらきらさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100421/1271798657#c1271914407

教義安心面では、質問された方のいわれる「本記事で仰っている信心」が「真実信心」と仮定した場合、第三者の信心は、人間には分かりませんので答えることはできません。
答えたとしたら、私が他人の信心が真実信心か、そうではないかの判断ができることになってしまいます。布教使が信心を、判断できる、またしているとすれば、土蔵秘事です。

今回のエントリーは、十劫安心とは何かというお尋ねでしたのでこのように書きました。十劫安心と真実信心の違いについて書きました。