安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「無疑心がハッキリする、しないということではないならば、それは自覚されないということでしょうか。」(マヤさんのコメントより)

「無疑心=ハッキリする」の言い方について考える - 安心問答(浄土真宗の信心について)についてコメントをマヤさんより頂きました。有り難うございました。

マヤ 2012/12/28 06:25
無疑心がハッキリする、しないということではないならば、それは自覚されないということでしょうか。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20121228/1356637362#c1356643509


これについては、蓮如上人の御一代記聞書に「心得たと思うは心得ぬなり。心得ぬと思うは心得たるなり」と書かれています。とくよしみねさんのコメントにも紹介されている文章です。
マヤさんの言われる自覚の定義によるのですが、「理解した・分かった」という意味の「自覚」はありません。弥陀にまかせたことをさして、自覚とわれるのならば、それはあります。


そのことを御一代記聞書では、「理解した・分かった」ということはないという事を、「少しも心得たると思ふことはあるまじきことなり」と言われています。
では、救われたと言うことはどういうことなのでしょうか?については「弥陀の御たすけあるべきことのたふとさよと思ふが、心得たるなり」と言われています。


上記の御一代記聞書の全文は以下の通りです。

一 おなじく仰せにいはく、心得たと思ふは心得ぬなり。心得ぬと思ふは心得たるなり。弥陀の御たすけあるべきことのたふとさよと思ふが、心得たるなり。少しも心得たると思ふことはあるまじきことなりと仰せられ候ふ。されば『口伝鈔』(四)にいはく、「さればこの機のうへにたもつところの弥陀の仏智をつのらんよりほかは、凡夫いかでか往生の得分あるべきや」といへり。(御一代記聞書213・浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P1300)

http://goo.gl/q7aiN


自覚という言葉に相当するのが、「心得た」です。この御一代記聞書も、当時同じような質問が多かったので蓮如上人が仰ったものと思います。
ここから言えることは「救われる」の意味は、「弥陀の御たすけあるべきことのとうとさよと思う」ことだということです。私の側での「理解した・分かった」ことではないと書かれています。


また、自覚という言葉の意味は、辞書を引くと以下のようにあります。

【自覚】じかく
① 自分自身の立場状態能力などをよく知ること。わきまえること。「自分の立場をよく―している」「本人の―に待つ」(大辞泉より)

「自分自身の状態をよく知ること。わきまえること」という意味でいえば、救われている状態であるということをよく知ることはあります。


しかし、一般に「自分自身の状態をよく知ること」は、なにか「分かった・理解した」ことからいうので、その点では異なります。
自分の「分かった・思った」ことの土台にたって、救われたかどうかを言っているのではありません。阿弥陀仏の仰せにまかせたかどうかを、救われたと言っているのです。


ですから「『口伝鈔』(四)にいはく、「さればこの機のうへにたもつところの弥陀の仏智をつのらんよりほかは、凡夫いかでか往生の得分あるべきや」といへり。」と言われています。
私にむけてただ今助けるという阿弥陀仏が仰せになる南無阿弥陀仏をそのまま聞くよりほかにはないということです。それ以外に「分かった・理解した」ことで往生できるかどうかが決まるのではありません。


最後にあらためて書きますと、「理解した・分かった」からくる自覚はありません。「弥陀の仏智にまかせた」からくる自覚はありますということになります。