安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

南無阿弥陀仏を疑う心について(おしゃまさんのコメント)

おしゃまさんからコメントを頂きました。有難うございました。

私の疑う心とは、「南無阿弥陀仏」を疑う心です。
(中略)
(この南無阿弥陀仏に泥凡夫を仏にする力が本当にあるんだろうか?)という疑いが出てきます。
でも、阿弥陀仏は「おまえには信じる心はない」と見抜かれて御本願を建てられたのですよね。信じる心(信楽=無疑心)も南無阿弥陀仏の中に封じ込めて、私に回向して下されるんですよね。
�仏智疑う罪深し�というご和讃を思い出すと、自分のこの�疑う心�は恐ろしい心なんだろうけど、(私はまだ信前なんだから、しょうがないじゃないか・・・。)と開き直っているのが、今の私です・・・すみません。(おしゃまさんのコメント)

おしゃまさんの疑いとは、コメントの言葉を使うと「この南無阿弥陀仏に泥凡夫を仏にする力が本当にあるんだろうか?」という疑いだと書いて頂きました。
しかし、疑いがないというのは、阿弥陀仏のように南無阿弥陀仏には凡夫を仏にどうやってするのかという仕組みがわかることではありません。
阿弥陀仏に救われるというのは、仏と同じ智慧を身につけることではないからです。
ですから、信じる心というのは、「南無弥陀仏の仕組みが理解できる」ということではありません。また、私が信じられるようになるという小さなものではありません。

この心すなはち如来の大悲心なるがゆゑに、かならず報土の正定の因となる。(教行信証信巻)

信楽については、阿弥陀如来の大悲心であるから、必ず報土往生の因となるといわれています。阿弥陀如来の大慈悲の徳が、私へ向かって助けようと働いておられるのが信心です。

仏智うたがうつみふかし この心おもひしるならば
 くゆるこころをむねとして 仏智の不思議をたのむべし(正像末和讃82)

このご和讃も、疑いを戒められているお言葉です。
なかなか仏智を疑う罪が恐ろしいと思えないと書いて頂きました。しかし、親鸞聖人はくゆる心をむねとして仏智の不思議をたのむべしと言われています。
自覚できるかどうかは別として、疑っていることを改めて、南無阿弥陀仏をたのむべしと勧めておられます。自覚しなさい、反省しなさいで終わっているご和讃ではありません。
恐ろしいと知ったらなら、早く南無阿弥陀仏をたのみなさいと勧めておられるお言葉です。