安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「聞く」という言葉を聞くと、「何を?」「どのように?」と考えてしまうことについて

「助ける法」を聞くと「で?」となる構造について考える - 安心問答(浄土真宗の信心について)に追記のエントリーです。

関連して「聞く」という言葉を聞くと、「何を?」「どのように?」と考えてしまうことについてのエントリーです。

しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。(教行信証信巻(末))

http://2g3.wb.sl.pt

ここから、浄土真宗は「聞く」「聞く一つ」という言葉がよく使われます。

そこで「聞く」という言葉を聞くと、どうしても「どうやって聞くのですか?」とか「何を聞くのですか?」と考えてしまいます。なぜなら、「聞く」という言葉は、一般に「何かの音声(話・考え)を聞く」と使われます。さらに「真剣に(いい加減に・ぼーっと)○○を聞く」というように使われている言葉だからです。

そこで「仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし」というご文を読むと、「仏願の生起本末」を誰かから聞いたら、「疑心あることなし」という心境にやがて変化するのだろうと考えます。そして、そうなったのを信心だと勝手に想像します。しかし、その考えは間違っています。それでは、どれだけ「ど真剣」に聞こうが「立派な先生」から聞こうが、何も聞けません。

なぜなら上記のご文でいわれる「聞」は「聞即信」であらわされる「聞」だからです。

「聞即信」とは、「聞」とは「信」のことである。「信」とは「聞」のことであるということです。「聞」によって「信」を表されていることばですから、意味からいうと「聞=信」となります。

「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。(一念多念証文)

http://7eh.qk.sl.pt

意味を言えば、「聞」とは、本願に疑いないことであり、「信心」であるといわれてます。
ですから、「聞く一つ」とは「信心一つ」ということです。言葉を変えると「聞」とは「(一般に言う)聞く」ではないということです。本願に疑心ない信心を「聞」という字で表されているということです。

それを「一心一向に弥陀をたのむ」と蓮如上人はいわれました。聞くといっても、信心といっても、意味は阿弥陀仏の仰せをたのむことです。ただ今助けるの仰せを、我が計らいを入れずに受け入れることです。

それは、「ただ今助ける」という南無阿弥陀仏の仰せのほかに何かを想像して、その「何か」を聞いたらやがて疑心あることない状態になるということではありません。「ただ今助ける」の仰せのほかには何もありません。いわば文字通りで裏はありません。この南無阿弥陀仏であらわされる、ただ今助けるの仰せにまかせたことを、聞いたとか信じたとかいわれます。

「聞き方」や「聞く対象」を自分で想像しても、それはありもしない虚像です。すべて南無阿弥陀仏の六字に収まっていますので、その仰せにまかせる一つです。ただ今救うといわれるので、ただ今救われます。