安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「因果の道理を学ばなければ救われませんか?」(頂いた質問)

因果の道理は仏教の根幹である」と聞かされてきました。仏教の根幹というくらいですから、これを知らなければ何も始まらないように思います。因果の道理を学ばなければ救われないのでしょうか?(頂いた質問)

阿弥陀仏の救いに、「まず因果の道理を知らねば」というものはありません。もし、「まず因果の道理を知らねば」ということならば、因果の道理を聞いている人もあれば、聞いていない人もあるので、世の中に「ただ今救われる人」と「ただ今救われない人」の二通りがあるということになってしまいます。

しかし、そんな二通りの人はありません。なぜなら、阿弥陀仏の救いは「まず私が○○せねば」というものは一つないからです。そのように「条件」を設定すると、どれだけ素晴らしい浄土があってもそこへ往生できない人が出てきます。それは阿弥陀仏の願心に合いません。

唯信鈔から紹介します。

国土妙なりといふとも、衆生生れがたくは、大悲大願の意趣にたがひなんとす。これによりて往生極楽の別因を定めんとするに、一切の行みなたやすからず。孝養父母をとらんとすれば、不孝のものは生るべからず。読誦大乗をもちゐんとすれば、文句をしらざるものはのぞみがたし。
布施・持戒を因と定めんとすれば、慳貪・破戒のともがらはもれなんとす。忍辱・精進を業とせんとすれば、瞋恚・懈怠のたぐひはすてられぬべし。余の一切の行、みなまたかくのごとし。(唯信鈔)

http://684.8t.sl.pt

上記にあるような「孝養父母」「読誦大乗」「布施・持戒」「忍辱・精進」など、どれかをしなければ往生できないとなれば、必ずそれが出来ない人が出てきます。

お尋ねの「因果の道理を学ばねば」と言ったところで、臨終に初めて仏法を聞こうという心が起きた人に「まずは因果の道理」を聞く時間はありません。そうなれば、本願に漏れる人がでてきます。


そこで、阿弥陀仏は南無阿弥陀仏一つで救う、念仏一つで救うというという本願を建てられました。

 これによりて一切の善悪の凡夫ひとしく生れ、ともにねがはしめんがために、ただ阿弥陀の三字の名号をとなへんを往生極楽の別因とせんと、五劫のあひだふかくこのことを思惟しをはりて、まづ第十七に諸仏にわが名字を称揚せられんといふ願をおこしたまへり。
(略)
さてつぎに、第十八に念仏往生の願をおこして、十念のものをもみちびかんとのたまへり。まことにつらつらこれをおもふに、この願はなはだ弘深なり。名号はわづかに三字なれば、盤特がともがらなりともたもちやすく、これをとなふるに、行住座臥をえらばず、時処諸縁をきらはず、在家出家、若男若女、老少、善悪の人をもわかず、なに人かこれにもれん。(同上)

第十八願は念仏往生の願ともいわれます。念仏で往生させる本願だからです。どんな人でも称えられる姿になって、南無阿弥陀仏となって私に働いて下さるのですから、私の方で何かをしなければならないということはありません。


もし「まず因果の道理を学ばねば」念仏が口から出てこないということならば、因果の道理を知らない人は救われないということになりますが、そんなことはあり得ません。

ただ今私に働いて下さっている南無阿弥陀仏は、私だけでなく「行住座臥をえらばず、時処諸縁をきらはず、在家出家、若男若女、老少、善悪の人をもわかず、なに人かこれにもれん」と言われている通りです。もれるひとは一人もありません。

ただ、南無阿弥陀仏一つで私を救って下さいます。ただ今本願力に救われて下さい。