安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「(阿弥陀仏に救われるに)このままではにっちもさっちもいかないようです。(略)手がかりをつかんで参究中です。」(1chさんのコメントより)

1chさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

1ch 2014/01/31 02:52
(略)このままではにっちもさっちもいかないようです。
(略)手がかりをつかんで参究中です。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20140127/1390823543#c1391104346

いろいろと書いて頂きましたが、阿弥陀仏に救われる為の「手がかり」はこちらの側には何一つありません。もし何か手がかりが私にあれば、「それを手がかりに救う」という本願を阿弥陀仏は建てられているはずです。しかし、阿弥陀仏は「南無阿弥陀仏一つで救う」と本願を建てられています。

これについては、いろいろなお聖教に出ています。今回は唯信鈔から紹介します。

第十八に念仏往生の願をおこして、十念のものをもみちびかんとのたまへり。まことにつらつらこれをおもふに、この願はなはだ弘深なり。名号はわづかに三字なれば、盤特がともがらなりともたもちやすく、これをとなふるに、行住座臥をえらばず、時処諸縁をきらはず、在家出家、若男若女、老少、善悪の人をもわかず、なに人かこれにもれん。(唯信鈔)

http://goo.gl/xZAMUY

「行住座臥をえらばず、時処諸縁をきらはず、在家出家、若男若女、老少、善悪の人をもわかず」救うために、念仏一つの救いという本願を阿弥陀仏は建てられたのでした。その念仏は「○○な気持ちで称えた念仏」でも「○○な場所で称えた念仏」でも「○○回称えた念仏」でもありません。


その念仏について、御一代記聞書から紹介します。

(179)
(略)聖人(親鸞)の御一流には弥陀をたのむが念仏なり。そのうへの称名は、なにともあれ仏恩になるものなりと仰せられ候ふ[云々]。(御一代記聞書)

http://goo.gl/JVjgXi

(179)
親鸞聖人のみ教えにおいては、弥陀を信じおまかせするのが念仏なのである。
弥陀を信じた上で称える念仏は、どのようであれ、すべて仏恩報謝になるのである」と仰せになりました。

http://goo.gl/tRHZTo

「弥陀をたのむが念仏」と言われています。
阿弥陀仏のただ今助けるの仰せに従うほかには何もありません。それ以外に「手がかり」は無いので、どれだけ考え、探しても無いものは見つけることは出来ません。


また、

1ch 2014/01/31 13:08
他者への悪口悪態を正当化することで私が安心するという仕方だと、いけないような気がするのですが、
これについては、どうすればいいのでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20140127/1390823543#c1391141307

と書かれた点も、阿弥陀仏に救われるには関係ないことです。日常生活上で、気になるところであっても、救いと関係づけて気にする必要は全くありません。

ただ今阿弥陀仏に救われて下さい。