安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「阿弥陀仏の本願が、今自分に働きかけて下さっていることを、いつもどう偲ばせていただけばいいのでしょうか。」(香取さんのコメント)

香取 2012/09/02 03:30
質問させていただきます。阿弥陀仏の本願に救われたいと思い、念仏をとなえたり、仏教の本を拝読したりしています。しかし、自分の思いや理解を深めることに一生懸命でないかと最近思われてきます。方向が逆になっているのかも知れません。阿弥陀仏の本願が、今自分に働きかけて下さっていることを、いつもどう偲ばせていただけばいいのでしょうか。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120901/1346486883#c1346524216

香取さんが言われるとおり「自分の思いや理解を深めること」は、阿弥陀仏ではなく自分へ自分へと心を向けているので方向が反対です。

ただ、阿弥陀仏が私に働きかけて下さっていることは実際そうなっていることですから、「どう考えたらいい」という性質のものではありません。何か今まで見えなかった力が「考え方」を変えることで見えるようになるというものでもありません。

このようにお尋ねになるのも、なにか「きっかけ」が欲しいという思いからではないでしょうか?しかし、「きっかけ」と言っても本質的には「方法・手段」のことですから、そんなものは阿弥陀仏の救いにはありません。私の側で用意しなければならない「方法・手段」なく救われるように、阿弥陀仏は本願を建てられました。

香取さんからすれば、念仏を称えたり、仏教の本を読むのは、「どこかに救われるきっかけ」を探している行為となります。私の方から手を出すのではなく、阿弥陀仏から出されている法をそのまま聞くのが救いです。

そのことを御文章2帖目7通から引用します。

そもそもその信心をとらんずるには、さらに智慧もいらず、才学もいらず、富貴も貧窮もいらず、善人も悪人もいらず、男子も女人もいらず、ただもろもろの雑行をすてて、正行に帰するをもつて本意とす。(御文章2帖目7通 五戒・易往)

http://278.dj.sl.pt

智恵や才学、お金、善悪、性別も関係なく、ただもろもろの雑行を捨てて正行に帰することであるといわれています。

そこで、その正行に帰するとはどういうことなのかについて、続けて書かれています。

その正行に帰するといふは、なにのやうもなく弥陀如来を一心一向にたのみたてまつる理ばかりなり。かやうに信ずる衆生をあまねく光明のなかに摂取して捨てたまはずして、一期の命尽きぬればかならず浄土におくりたまふなり。この一念の安心一つにて浄土に往生することの、あら、やうもいらぬとりやすの安心や。されば安心といふ二字をば、「やすきこころ」とよめるはこのこころなり。(御文章2帖目7通 五戒・易往)

「なにのやうもなく弥陀如来を一心一向にたのみたてまつる理ばかりなり。」です。
こちらの側でなにも用意するものはありませんから、「なにのやうもなく」と言われています。私の方に何も条件を付けられないので「あら、やうもいらぬとりやすの安心や」と続けて書かれています。

香取さんのお尋ねで「どう阿弥陀仏を思ったら」ということをいわれるのは、「ただ今救う本願」と思えないので少しでも阿弥陀仏のことを心にかけようとされているからではないかと思います。

さらに言えば「方向」と言われるのも、阿弥陀仏の救いをただ今ではなく少し未来に置いておられるのではないかと思います。そのように、自分と少し離れた場所から私に向けて働きかけられるような本願ではありません。南無阿弥陀仏はただ今私に働いておられます。ただ今ということは、今私がいるこの場所ということです。「こんなところにいるはずもないのに」という所にでも、私に常に呼びかけられる声が南無阿弥陀仏です。

そういう南無阿弥陀仏ですよと教えられているのが、お釈迦さまであり親鸞聖人です。
心がけるより先に、ただ今救う本願を聞いてただ今救われて下さい。