安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

阿弥陀仏の願心について

bsfさんのコメントからエントリーを書いたものの追記として書きます。

阿弥陀仏の本願は、もともと修行できるような人を目当てに建てられたものではありません。煩悩具足の凡夫を目当てに建てられたものです。

煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意(歎異抄第3条)

どれだけ行を励んだとしても生死を離れることができないのが煩悩具足の私です。その私を憐れに思われて阿弥陀仏は本願を建てられました。
そのため、阿弥陀仏の本願には私の行を必要とされません。どれだけ積み重ねて私の行は生死を離れるためには間に合わないからです。
私に何かを教えて、そして実践させて救うという本願ではありません。そのような学校の教育のようなものが阿弥陀仏の救いではありません。仏門という門をくぐり、道を進んで出口に出るようなものをイメージするのは間違いです。そのような自業自得の道理は阿弥陀仏の救いではありません。

阿弥陀仏は自分の力では生死を離れることができない私のために、阿弥陀仏の方から救って下さるのです。
夏休みの宿題ならば、「自分でなんとかせねば」というのは当たり前ですが、海でおぼれている時に「自分でなんとかせねば」と思うのは間違いです。なんとかなるのならそもそも海でおぼれませんし、海水浴場に監視員は必要有りません。

阿弥陀仏の願心から言えば、阿弥陀仏は私に何かをせよと要求されません。お前をただ今救うの仰せを聞くだけです。