安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「「捨ててから」聞こうというのは自力だからそれも捨てて、というのも結局自力になってしまうのではないでしょうか。」コメントまとめ

「信心決定にとって要る心と要らない心をわかり易く教えて下さい。」(がくとさんのコメント) - 安心問答(浄土真宗の信心について)のコメント欄が長くなったので、こちらにエントリーとしてまとめました。

同行 2012/09/07 18:08
>しかし、それを「捨ててから」聞こうと思えば、それもまた自力の計らいですからそれも捨ててそのまま阿弥陀仏の本願をただ今聞いて救われてください。必ずただ今救われます。

「捨ててから」聞こうというのは自力だからそれも捨てて、というのも結局自力になってしまうのではないでしょうか。


がくと 2012/09/07 20:52
>しかし、それを「捨ててから」聞こうと思えば、それもまた自力の計らいですからそれも捨ててそのまま阿弥陀仏の本願をただ今聞いて救われてください。必ずただ今救われます。

要らない心を持ったままでも、本願をただ今聞いて救われることができる、ということでしょうか?



yamamoya 2012/09/08 04:09
同行さん

結局自力になるのでそれも捨てるということになります。
エントリーに書いた表現をつかえば「それも捨てて←それも自力だからそれも捨てて←それも自力だからそれも捨てて・・・」とキリがないので、1度だけ書きました。

がくとさん
捨てて「から」聞くのではなく、捨てることは「そのまま」聞くことですから、いらない心を持ったまま救われるということではありません。本願を聞けばいらない心も用事はさらにありません。



同行 2012/09/08 09:24
>エントリーに書いた表現をつかえば「それ も捨てて←それも自力だからそれも捨てて ←それも自力だからそれも捨てて・・・」 とキリがないので、1度だけ書きました。

キリがないということは、無限に捨て続けなければならないということになってしまうので、結局はいらない心も捨てられないということになると思うのですが。



たかぼー 2012/09/08 15:25
自力を捨てることは不可能。自力を捨てることが不可能であれば、いったんそのことを認めるべし。私に残された方法としては、阿弥陀仏の仰せをそのまま聞くしかない。聞けば、そのまま私を浄土に迎えるという弥陀の仰せ(願心)を知る。それゆえに、私の生死のことは弥陀にまかせる心がはじめて起こる。これが本願乗託。この心は、弥陀の仰せをそのままに聞いたから起こる心であるから、本願より生じた信心であると祖師は教えられました。



yamamoya 2012/09/08 15:31
同行さん

自分の力で自力は捨てられないので、「本願他力をたのみて自力をはなれたる」(唯信鈔文意)といわれます。
「結局はいらない心も捨てられない」と書かれていますが、それはあなたにとっての問題なのか、ただの文脈上の疑問なのかはよくわかりません。
同行さんにとっての問題とした場合は、それで困っておられるのでしょうか?




しん 2012/09/08 16:04
これまでのやりとり(以前のも含めて)をお聞かせいただいておりましたが、回答がわかりにくいです。
☆如来の本願名号のはたらきは、自力(疑い)を除くはたらきも持っています。「与えてもたせぬお慈悲」と
よく言われていました。



がくと2012/09/08 16:36
しんさん
>☆如来の本願名号のはたらきは、自力(疑い)を除くはたらきも持っています

自力(要らない心)も如来が取り除いて下さるのならば、要らない心というものは、ない、ということになりますね。
要らない心を除くのが、如来のはたらき(お仕事)ならば、要らない心はむしろ、要る心であるとも言えそうです・・・



たかぼー 2012/09/08 17:03
しんさんの、「本願名号は疑心を除く働きがある。」というのはその通りだと思います。本願の願心をそのまま聞くと自然と疑心は消除されます。これは弥陀の願力によると祖師は教えられています。



がくと 2012/09/08 17:04
yamamoya様
>捨てて「から」聞くのではなく、捨てることは「そのまま」聞くことですから、いらない心を持ったまま救われるということではありません。本願を聞けばいらない心も用事はさらにありません。

「本願をそのまま聞く」という表現が如来の救いにあうことをいうのでしょうが、まるで私の側の行為のような誤解を与えるので、どうも馴染めません。yamamoya様の言葉でしょうか、それとも聖教上の言葉なのでしょうか?



同行 2012/09/08 17:52
yamamoya さん

そうですね、捨てようとしても捨てきらない自力に苦難しております。

しかし、自力を捨てることがそのまま本願を聞くこととなると、それもやはり自力ということになりますから、この無限言及からは離れられないように思います。



yamamoya 2012/09/09 05:18
がくとさん

「本願をそのまま聞く」の文字はお聖教にありません。しかし、私が勝手に言い始めた言い方でもありません。
いつから使われるようになったかはわかりませんが、「「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり」(一念多念証文)を別の言い方にしています。私の計らいをあれこれ入れずに聞いていることを信心といいますので、私の行為ではありません。信心とは、私が「本願を聞いて疑い無い状態」ですから、私の行為のように思われるかもしれませんが、私の上で本願が働いてくださっている状態であって、私の行為ではありません。

「本願をそのまま聞く」はいつから言われ始めたかはよくわかりません。本願について、「本願招喚の勅命」と親鸞聖人はいわれました。そこで、親鸞聖人はその内容を二河白道の譬で「汝一心正念にして直ちに来れ」と紹介されています。この「直ちに来れ」について、一蓮院秀存師は「そのままじゃぞ」と言われたり、妙好人大和の清九郎が、お寺の子供に「清九郎、そのまま来いよ」と言わせて、それを聞いて喜んだという話が伝わっています。
本願は「汝一心正念にして直ちに来れ」(そのまま来い)を私の計らいを入れずに聞くと「そのまま来い」と聞くということになります。



yamamoya 2012/09/09 05:22
同行さん

無限言及状態はどこまでか行けば終わりがあるというものはありません。「直ちに来れ」と言われるのは阿弥陀仏ですから、それを聞いてください。



がくと 2012/09/09 09:15
「そのまま来い」と「そのまま聞け」とは意味合いが違うように思います。
「そのまま来い」は私の機のことで、「そのまま聞け」は法のことではないですか?
なかなか法をそのまま聞けないから、「はからいを捨てよ」と、機の方を変えよとyamamoya様はお仰っているように思えます。
それに対して如来様は「そのまま来い」と、私の機すなわち心の持ち様は関係ないぞ、と仰っているように思うのですが・・・



同行 2012/09/09 13:53
yamamoya さん

要するに無限言及状態を続けていれば、いつかは「直ちに来たれ」の御声が聞こえてくださるということでしょうか。



いろは 2012/09/09 17:29
えー横なんですが、yamamoyaの話で大和の清九郎という人を初めて知りました。それでうぐいすがほーほけきょと鳴いたり、コノハズクがブッポウソウと鳴いたりするのか、とふと思い至りました。
その直後調べると清九郎はうぐいすに付きまとわれていたことがあり不思議だとおもっていると
宝物披露の法要に行くことがあって蓮如上人ゆかりの鶯籠に出会いその説明でその鳴き声が「法を聞けよ」と催促していると気付いたらしいですね。
自分は法華経とおもってたんですが「法を聞けよ」ですか。成る程!
考えたことが一致していたことに不思議なものを感じました。



yamamoya 2012/09/09 21:38
がくとさん
阿弥陀仏の側からいえば「そのまま来い」といわれることを、私のが側で言えば「そのまま来いと聞く」ということです。
機の方を変えるというよりは、法にこちらから手をさしはさまずに聞きなさいということでかいています。「そのまま来い」と阿弥陀仏がいわれるのは、「帰命せよ」とのお勧めです。弥陀に帰命するというときには、私の心をどうこうしろということではありません。阿弥陀仏の仰せをそのまま受け入れることです。

同行さん
いつかは「直ちに来れ」のお声が聞こえるのではありません。ただ今「直ちにきたれ」と呼びかけられる法に従うということです。いつかではないので「直ちにきたれ」「ただ今救う」と働いてくださいます。



yamamoya 2012/09/09 21:43
いろはさん

大和の清九郎さんほか妙好人の方の言動は、そのまま法をかたられてありがたいお話が多いですね。
「法を聞けよ」は、私も話で聞いてからそのように聞くようにしています。そのように聞けば本願力のお働きはいつでもあるのだと思います。南無阿弥陀仏。



がくと 2012/09/09 23:07
やっぱりわかりにくいです。
「私の心をどうこうしろということではありません」と仰ることと「計らいを捨てよ」と仰ることは全く矛盾していると思うのです。



同行 2012/09/10 00:42
yamamoya さん

自力を捨てる無限言及状態と「ただ今救う」というのも矛盾しているように思います。
ただ今救ってくださるなら、無限言及状態にはならないし、無限言及状態をいくらか行為せねばならないならただ今救うということにはなりません。



YGM 2012/09/10 09:12
「直に来たれ」も「ただ今救う」も阿弥陀仏があなたに言われていることです。
これをyamamoyamaさんが言われているように思ってしまうと、
どういう理屈で今救うのだとか、矛盾じゃないかとか詮索してしまいます。
阿弥陀様が直にあなたを救うからまかせてくれと願心を掛けてくれていることを知れば、
それまでです。
その伝え方が悪いとか表現がおかしいとかは、どんな言い方をしようがそれは言葉の問題ですから、それに固執し過ぎず、阿弥陀様の心を想うのが大事と思います。



yamamoya 2012/09/10 14:21
がくとさん

「私の心をどうこうしろということではありません」は、自分の心をなにか変えてから「弥陀のたのむ」のではないということです。
「計らいをすてよ」は、「弥陀をたのめ」と同じ意味の言葉なので、矛盾はしていません。
何かをしてから弥陀をたのむのではなく、すでに呼びかけられる阿弥陀仏の仰せにただ今まかせるということです。



yamamoya 2012/09/10 14:28
同行さん

自力で自力を捨てようとすれば、いつまで立っても捨てられないです。
ただ今阿弥陀仏の仰せに信順したのが信心であり、自力を捨てて他力に帰したということです。
「ただ今救う」は阿弥陀仏の本願ですが、自力を自力で捨てようとするのは私の計らいですから、別のものです。
ただ今救う本願を、自分側でなにか手を加えようとすれば無限言及となります。「ただ今救う」を「ただ今救う」と聞いて疑い無ければ「どうすればいいのだろう」という計らいはありません。



たかぼー 2012/09/10 14:52
管理人さんが繰り返して言われている「ただ今救う」というのは弥陀の仰せそのものです。そのまま聞くとは弥陀の仰せを仰せのままに聞く、仰せの通りに聞くということです。先哲はこれを「如実の聞」と言ってきました。その如実の聞というのは仏願の生起本末を聞いて疑心あることなし、という聞き方です。他方で、「計らいを捨てよ」というのは自力で計らいを捨てるということではありません。弥陀の仰せを如実に聞けということを裏から示した言葉です。捨てよという言葉にとらわれて計らいを捨てようとしても何も得られません。しかし、計らおうとする思いはやまない。ここに難信といわれる由縁があります。まじめに求めている同行であればここひとつが聞きたいと思われる難所がここです。この難所を言葉で導くことは不可能です。私が阿弥陀仏に対して救いを求めるのではなく(=自力では無理とあきらめて)、阿弥陀仏が私にどのような願いをかけているのかを聞く(=願力の働きに委ねる)ばかりなのです。



がくと 2012/09/10 17:17
「計らいをすてよ」は自分の心を変えよ、ということではない、と了解させていただきました。
計らいは、助かる一念まであってもよい心であり、邪魔にはならない心、である。
ただし、信心決定すればなくなる心、でもあると。



たかぼー 2012/09/10 19:45
「計らいを捨てよ」とは、自分の心のあり方を変えるということではありません。阿弥陀仏の救いにあずかるには、自分の心のあり方などを問題にする必要はまったくありません。無条件のお救いとは、そういうことです。ところが、阿弥陀仏の救いにあずかるには自分の心のあり方など自分の側(修善などの行や真剣な聴き方などもろもろ)を問題としなければならないと考えるのが計らいであり、この考えにとらわれているのが自力です。この計らいにとらわれている限り、阿弥陀仏が私の上にかけている願いそのものに目が向くことがないので、自力は役に立たないから捨てろと言われるのです。阿弥陀仏の仰せ(願心)をその仰せ(願心)のとおりに聞くということが最も肝要です。願心のとおりに聞いているとき、その心を無疑心とも、信楽とも、帰命とも、信順とも、本願乗託などともいうのです。



がくと 2012/09/11 06:05
たかぼーさん
>この計らいにとらわれている限り、阿弥陀仏が私の上にかけている願いそのものに目が向くことがないので、自力は役に立たないから捨てろと言われるのです。

「言われるのです」は如来様の言葉と聞けと、たかぼーさん仰せですから、

如来様の「そのまま来い」は、「自力を捨てて来い」ということでよろしいですか?



同朋 2012/09/11 10:21
「自力」「計らい」について、混乱しているようですが、自分で捨てることのできる「自力」「計らい」と阿弥陀仏によって捨てさせられる「自力」「計らい」とがあります。
五雑行という「自力」「計らい」は、自分で捨てることができますよね。諸善という「自力」「計らい」も自分で捨てることができます。
なぜなら18願に明らかに反するものであるから、この「自力」「計らい」を捨てなければ、真宗が始まりません。
しかし、18願に誓われた念仏に対しては違います。

高森会長の言葉を使えば、三願転入の御文において、19願から20願は「回入」ですが、20願から18願へは「転入」と違うのです。

19願、諸善という「自力」「計らい」を捨てた上での「そのまま来い」です。19願、諸善という「自力」「計らい」を捨てずに「そのまま来い」ではありません。



たかぼー 2012/09/11 11:37
阿弥陀仏は18願において衆生に対して「(自らの努力で)自力を捨ててこい」とは誓われていませんし、私もそのように述べたことは一度もありません。阿弥陀仏の18願のお救いは「無条件である」と書いたとおりです。「自力は役に立たないから捨てろ」という表現を用いて「他力の信」を表してきたのは真宗の先哲達であり、蓮如上人も御文章で「雑行雑修自力の心をふりすてて」と述べていますが、これらの意味は、既に述べたとおり、弥陀の仰せを「如実に聞く」ということ(=他力の信)を裏から示した言葉であり、「他力の信」を表した表現なのです。



たかぼー 2012/09/11 11:54
追伸
阿弥陀仏の仰せを仰せのままに聞けば、自力は自然と消尽するものです。自分の努力で自力を消尽させるのではないし、そのようなことは不可能です。仰せを如実に聞いたことによってこの自力が消尽したことを他力信というのであり、これについて祖師は自力を離れるを唯信というと教えられています。



yamamoya 2012/09/11 12:56
がくとさん

阿弥陀如来の「そのまま来い」は、文字通り受け取れば「そのまま来い」です。「○○してから来い」ではありません。
捨自帰他も、捨自即帰他のことをいわれるので、「捨自」してから「帰他」ではありません。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120907/1347008141#c