安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「阿弥陀仏に救われて下さい」は、「救われたら分かりますよ」ですか?(おさびしやまさんのコメント)

おさびしやまさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

(中略)文章の最後に、「あれも計らいではないか、これも計らいではないかということはもうやめて」とありますが、やまるものと見て言われているのでしょうか? また、「阿弥陀仏に救われてください」とは、救われたら分かりますよ、という意味で言われているのでしょうか?(おさびしやまさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20101014/1287059583#c1287069774

Rudelさん、maryさんからもコメントを頂きました。有り難うございました。
「計らいが自分の力でやむからやめなさい」といったのではありません。自分の心のなかをいろいろと探ってみても、それで解決ができるのでは無いから、自分の心ばかりを問題にするのはやめて、阿弥陀仏に向かって下さいという意味で書きました。
実際に自力の計らいが無くなるのは、阿弥陀仏の本願力によりますので、自分でどうにかしたから無くなるというものではありません。

もう一つの、「阿弥陀仏に救われて下さい」の意味についてですが、文字通り「阿弥陀仏に救われて下さい」と言っているので、それ以上の意味はありません。「救われたら分かります」という意味ではありません。
阿弥陀仏は常に、私を助けようと働いておられますし、呼びかけておられます。そのよびかけが、南無阿弥陀仏となって私に届けられているのです。阿弥陀仏が私を助けようとされていることは、今より先の話ではありません、現実にただ今私を助けようと働いて下さっています。

阿弥陀仏の、むかし法蔵比丘たりしとき、「衆生仏に成らずはわれも正覚ならじ」と誓ひましますとき、その正覚すでに成じたまひしすがたこそ、いまの南無阿弥陀仏なりとこころうべし。これすなはちわれらが往生の定まりたる証拠なり。されば他力の信心獲得すといふも、ただこの六字のこころなりと落居すべきものなり。(御文章4帖目8通・八箇条・註釈版聖典P1179

阿弥陀仏が私を助けるために本願を建てられ、私を助けようと働いておられるすがたが、今の南無阿弥陀仏です。「救われたら分かるけれど、今は分からない何か」が、南無阿弥陀仏のほかにあるのではありません。
他力の信心獲得するといっても、この南無阿弥陀仏のこころを疑いなく聞く以外にはありません。自分の心の中をさぐることではありません。