安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「往生の大事を心にかけ、たえず聴聞しておりますが、わが胸をかえりみれば一念帰命の場所は遠いように思われます。また願力の不思議も名号の一人働きということも疑わぬのにどうして安心安堵の心にならないのでしょうか?」(真宗異安心批判(藤澤教聲・著)P146より紹介)

真宗異安心批判(藤澤教聲・著/洗心書房より復刻)P146より紹介します。

【問】往生の大事を心にかけ、たえず聴聞しておりますが、わが胸をかえりみれば一念帰命の場所は遠いように思われます。また願力の不思議も名号の一人働きということも疑わぬのにどうして安心安堵の心にならないのでしょうか?



【答】それには二つの病があります。よくよく聴聞して安心安堵の思いにまかせねばなりません。


一つには願力不思議とは聞きながら、何かおみやげものをこしらえたいと思う心がとれないのであります。
自力の善根などをもって往生しようという心はないけれども、おちつきたいとか安堵心になりたいと思う心ばかりで、法のお助けのお手もとを聞くことが後回しになって、この機に値打ちをもたせて信心を認めようと思うからであります。心の向きを変えてお助けのお手元をよくよく聴聞せねばなりません。私どもの往生の大事を気にかけて案ずるより先に、五劫永劫のご苦労によって十劫正覚の暁より、私共の往生一定の時を待ってくださる大悲の御心はいかばかりでありましょうか。法のお手元のみ力をまうけにさせて頂くばかりで、我が心を深めて信じようとするのではありません。


二つには往生を認めようと思う心が先で、本願を後回しにしている病であります。
私共の信心はお浄土に向かって直ちにおこす信心ではありません。救いの本願に向かって安堵する思いであります。本願に乗托すれば願力の不思議によって仏のかたより往生は定めて頂くのであります。広島から四国路にゆきのには、海岸に出て速く四国路に行きたいという思いはあっても、船に乗ることを忘れてはいつまでたっても行かれません。それゆえ船に乗り込みさえすれば、船の力で四国路に渡りますから、それと同じように願力のお救いにお任せをしさえすれば、船の力で四国路に渡りますから、それと同じように願力のお救いにお任せをしさえすれば、浄土に生まるることよの往生安堵の思いに住させて頂くのであります。それゆえ御開山聖人も「ただ不思議と信じつるうへは、とかく御はからひあるからず候ふ」と仰せられました。

私の胸をながめてとやかくと思うのは、みなはからいの病であります。ひとすじに如来の願力におまかせするばかりであります。(真宗異安心批判より引用)

このような問いを出す人には、二つの病があると書かれています。二つあってもどちらも本願を後回しにしている心は共通しています。
自分の心の安心か、往生浄土の思いを先にして、本願を聞くことが後回しになってしまえば、いつまでたっても本願は聞けません。

まず本願を聞いて疑い無いのが先で、私の心をあれこれというのは後まわしです。阿弥陀仏は我が名を聞けと常によびかけられていますので、その通りに聞いて疑い無いのが信心です。