安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「信心決定したくない私を追っかけて、追っかけて、阿弥陀様は苦労しておられるんでしょうけど、今の私は、あれこれはからうことをやめられません。まあ、自分ではやめられないんだからしょうがないんですけどね・・・。」(いがぐりさんのコメント)

いがぐりさんよりコメントを頂きました。有り難うございました

いがぐり 2012/03/21 17:01
山も山さん、ご回答有り難うございます。
私は“イヤイヤ聞いている自分はダメ”だとは思っていません。
こんな自分だから諸仏方では救えなかったのだな・・・と思っています。
阿弥陀様が救ってくださるのは私の後生だけ。
だから、自分の罪と死をみていくことはそのまま“本願”に向かっていることになるのかな?と気づきました。
信心決定したくない私を追っかけて、追っかけて、阿弥陀様は苦労しておられるんでしょうけど、今の私は、あれこれはからうことをやめられません。
まあ、自分ではやめられないんだからしょうがないんですけどね・・・。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120320/1332196084#c1332316893

ご自分の心をそのまま書いて頂き有り難うございました。いがぐりさんの考えがよく分かりました。
いがぐりさんが、どう思われるにしろ、阿弥陀仏は私を救う為に本願を成就されました。本願はすでに成就されているのですから、今からそこにむかって私を合わせていくようなこと、いわゆる帽子に合わせて頭を削るようなことは必要有りません。なぜなら、「罪悪生死の凡夫と見抜かれているから罪悪生死の凡夫と自覚しよう」と思っている以前に、すでに「罪悪生死の凡夫」だからです。それについて、親鸞聖人は教行信証信巻の信楽釈に以下のように書かれています。

しかるに無始よりこのかた、一切群生海、無明海に流転し、諸有輪に沈迷し、衆苦輪に繋縛せられて、清浄の信楽なし、法爾として真実の信楽なし。ここをもつて無上の功徳値遇しがたく、最勝の浄信獲得しがたし。一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。また虚仮諂偽の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。この虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。なにをもつてのゆゑに、まさしく如来、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、乃至一念一刹那も疑蓋雑はることなきによりてなり。この心はすなはち如来の大悲心なるがゆゑに、かならず報土の正定の因となる。如来、苦悩の群生海を悲憐して、無碍広大の浄信をもつて諸有海に回施したまへり。これを利他真実の信心と名づく。(教行信証信巻・浄土真宗聖典(註釈版)P235)

http://goo.gl/s9DTi

阿弥陀仏は、私をご覧になって「清浄の信楽なし、法爾として真実の信楽なし。ここをもつて無上の功徳値遇しがたく、最勝の浄信獲得しがたし」と見抜かれました。これを、自力無功ともいいます。自らの力では、浄土往生が出来ない(法爾として真実の信楽なし)ということです。

そのため、私の力では絶対に浄土往生が出来ないからこそ阿弥陀仏の本願力によらねば救われないと仰っています。それを「この心はすなはち如来の大悲心なるがゆゑに、かならず報土の正定の因となる」と言われています。

浄土往生するための南無阿弥陀仏を「如来、苦悩の群生海を悲憐して、無碍広大の浄信をもつて諸有海に回施したまへり。」といわれています。私にむかって、回向されているということは、貴方が考える以前に阿弥陀仏のお働きがあるということです。

それを目には見えなくても、直接耳には聞こえなくても是非とも感じて頂きたいと思います。阿弥陀仏の方がずっと私より考えて、呼びかけられています。私の計らいは一切あてになりません。私の計らい(自力)は捨てて、直ちに南無阿弥陀仏を聞いて下さい。必ずただ今救われます。