安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「一心一向に阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせてとありますが私にはそんな心が微塵の起こってきません。そんな私は助からないのでしょうか?」(みそみそさんのコメント)

みそみそ 2018/02/07 00:57
一心一向に阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせてとありますが私にはそんな心が微塵の起こってきません。そんな私は助からないのでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20180203/1517598940#c1517932635

この件についてはYGMさんからもコメントをいただきありがとうございました。


今回の、みそみそさんのコメントについて思う事は、自分の心の中に、阿弥陀仏をふかくたのむ心が起こらないと助からないと思っておられるのは間違いだと言うことです。
なぜならば、阿弥陀仏はそのような殊勝な心が起きないもののために本願を建てられました。もし、そのような殊勝な心が起きる人を助けると言う本顔であるならば、全ての人を救う事はできません。世の中には、そのような殊勝な心を持っている人が決して大多数ではありません。

一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。また虚仮諂偽の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。この虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。

なにをもつてのゆゑに、まさしく如来、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、乃至一念一刹那も疑蓋雑はることなきによりてなり。この心はすなはち如来の大悲心なるがゆゑに、かならず報土の正定の因となる。
如来、苦悩の群生海を悲憐して、無碍広大の浄信をもつて諸有海に回施したまへり。これを利他真実の信心と名づく。(教行信証信巻 本浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P235)
現代文
すべての愚かな凡夫は、いついかなる時も、貪りの心が常に善い心を汚し、怒りの心が常にその功徳を焼いてしまう。頭についた火を必死に払い消すように懸命に努め励んでも、それはすべて煩悩を離れずに修めた自力の善といい、嘘いつわりの行といって、真実の行とはいわないのである。この煩悩を離れないいつわりの自力の善で阿弥陀仏の浄土に生れることを願っても、決して生れることはできない。なぜかというと、阿弥陀仏が菩薩の行を修められたときに、その身・口・意の三業に修められた行はみな、ほんの一瞬の間に至るまで、どのような疑いの心もまじることがなかったからである。
この心、すなわち信楽は、阿弥陀仏の大いなる慈悲の心にほかならないから、必ず真実報土にいたる正因となるのである。如来が苦しみ悩む衆生を哀れんで、この上ない功徳をおさめた清らかな信を、迷いの世界に生きる衆生に広く施し与えられたのである。これを他力の真実の信心というのである。

https://goo.gl/JNbAo1

まとめて言いますと、もともと自分の力で浄土に往生することができないし、自分の力で清らかな心(ふかくたのむような心)がないので、そのような心は阿弥陀仏から与えて下さるのだということです。


ここ数日、例年にない寒波がやってきております。私のすんでいる地域も、大雪の北陸地方のような状態ではないものの寒い日が続いています。外に出てあるいは家の中で寒い思いをしている時に、暖かくなれとどれだけ私が念じてもなかなえ冷えた体は暖かくなりません。しかし、ストーブや炬燵でもいいですが、暖かいものに触れると暖かく感じることは出来ます。そこで、暖かく感じることがあっても、私の体がこの寒さに全く平気なほど熱を発生させられるようになったわけではありません。


これに似たようなことを、今回はみそみそさんは質問をされているのだと思います。「そんな心が微塵も起こってない」といわれるのは、この寒さの話でいうと「体が冷たいです。暖かくなるとは思えません。」と言っていると同じです。寒波にさらされた私の体は冷たいものです。その体は寒波の中で勝手に暖まるものではありません。しかし、暖かいものに触れると、暖かいと感じることは出来ます。その暖かいものに触れて、暖かいと感じるのが阿弥陀仏をふかくたのむということです。どれだけ暖かいと感じても、冷たい私が暖かい私に変わることはありません。それでも、常に暖かいものに触れているということは、有り難いことなのです。


前回のエントリーに、御文章を引用しました。この御文章に書かれていることも、「あたたかい身になれ」ではなく「あたたかいお働きがあるから、あたたまりなさい」と言われているのです。童謡の「たき火」のような場面を想像して見て下さい。「北風ぴーぶー吹いている」なかで、たき火がされています。その側にいる人が「あなたも当たっていきなさい。暖かいですよ」とよびかけておられるのが、親鸞聖人や蓮如上人なのです。その火にあたらないで、「なぜ冷たいのでしょうか」「暖まることはないのでしょうか」と疑問を起こすのは、この場面で言えばたき火に当たらずに「寒い、冷たい」と言っているようなものです。


ただ今救う本願は、寒い雪の中から言えば暖かい火のようなものです。他に暖まるものがなければ、それに当たるしかありません。多くの先達は、その暖かい火を独占するようなことはありません。「ようこそ、ようこそ来られました」と招いておられます。もちろん、一番招きよばれているのは、ここで言えば火そのものがよばれているのです。


さぁ、暖まっていきなさい。と勧められるように、それではそう致しますと暖まったのが「阿弥陀仏をふかくたのむ」ということです。ただ今救う本願に、ただ今救われて下さい。

参照