安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「救われたいと思っていますが、なかなか救われたといえる心境ではありません。そのまま聞けといわれますが、どうしたらよいのでしょうか?」(頂いた質問)

「救われたいと思っていますが、なかなか救われたといえる心境ではありません。そのまま聞けといわれますが、どうしたらよいのでしょうか?」(頂いた質問)

そのままというのが、よくわからないというのは誰もが考えることだと思います。そのままとは、別の言葉でいえば、私の力を用いないと言うことです。私の力を使わずに、如来の仰せそのままを聞くと言うことです。

不善の三業はかならず真実心のうちに捨てたまへるを須ゐよ。またもし善の三業を起さば、かならず真実心のうちになしたまひしを須ゐて、内外明闇を簡ばず、みな真実を須ゐるがゆゑに至誠心と名づく。(教行信証信巻・善導大師散善義引文より・浄土真宗聖典(註釈版)P217)

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私が「そのままになろう」とあれこれ考えることをここでは「不善の三業」といわれています。私があれこれ計らっている不善の三業は、法蔵菩薩が本願を建てられる際に捨てられたものですから、その通りに捨てなさいといわれています。それが「不善の三業はかならず真実心のうちに捨てたまへるを須ゐよ」です。「かならず」と言われるように、必ず捨てなさいといわれています。

次に、往生浄土にあたっての「善の三業」は、阿弥陀如来が真実心で成就されたもの(南無阿弥陀仏)を用いなさいといわれています。どんなひとでも、この南無阿弥陀仏を頂くから「至誠心」というのだと言われています。

いわゆる因果の道理に従って善をしなさいと親鸞聖人はいわれていません。往生浄土にあったっては、如来の真実心のうちになされた三業(南無阿弥陀仏)を用いなさいと言われています。

私の三業をどうひねり出しても浄土往生の足しにはなりません。如来の仰せの通り、南無阿弥陀仏をそのまま聞きなさいということです。それにあたって私の計らいを用いないということです。主役は南無阿弥陀仏であって私ではありません。