安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「信心決定すると曠劫多生迷ってきた自己がハッキリ知らされる」というのは、単純に「一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。」の現代語訳にも思えるのですが、どこが間違っているのでしょう?(教えてくださいさんのコメントより)

教えてくださいさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。コメント欄で、いろいろな方からもご意見を頂きました。私もコメント欄には書きましたが、少し書き加えてエントリーにしました。

教えてください 2012/03/04 18:59
(略)
「信心決定すると曠劫多生迷ってきた自己がハッキリ知らされる」
というのは、単純に
「一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。」
の現代語訳にも思えるのですが、どこが間違っているのでしょう?「多生」があるところ?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120225/1330159566#c1330855148

どこが間違っているかというと、「ハッキリ知らされる」です。
ここでは「信心決定すると曠劫多生迷ってきた自己がハッキリ知らされる」という表現は間違いです。
なぜなら、このエントリーは親鸞会教義についての言及なので、高森会長の言う「ハッキリ知らされる」は「火に触ったような」知覚をもったものとして語られているからです。そのため「曠劫多生の自己がハッキリする」と高森会長が言えば、「曠劫多生の過去の自己の姿の記憶が鮮明によみがえり、現在の自分の姿がそれまで以上に鮮明に分かり、未来も過去の記憶がよみがえるが如く鮮明に分かる」という意味になります。

そういう意味で間違いと言っています。

[はっきり]について国語辞書(大辞泉)をひらくと

はっきり[副](する)

  1. 物事の輪郭などが、きわめて明瞭であるさま。「富士山の姿がはっきり(と)見える」「汽笛がはっきり(と)聞こえる」
  2. 事の成り行き、人の言動などが確かなさま。「嫌なら嫌だとはっきり言ってくれ」「仕事が何時に終わるかはっきりしない」
  3. 気持ちが晴れ晴れとして、さわやかなさま。「水をかぶったら頭がはっきりとしてきた」

言葉の意味からすれば、浄土真宗親鸞会の高森顕徹会長のいう「ハッキリ知らされる」は(1)の内容に当たります。
例にあるように「汽笛がハッキリと聞こえる」ように「曠劫多生の自己がハッキリ知らされる」と言っているのが高森会長です。

「曠劫多生の自己がハッキリ知らされる」が仮に「見える」と同義語とすれば、ビデオ映像を見るがごとく一切の過去の自分の言動を目の当たりにするという不思議体験ということになります。
そこで、「曠劫多生」はわからないけれど、「現在の自己がハッキリ見える」とした場合でも、現在の自己の姿(主に罪悪)がきわめて明瞭に見えるということもありません。もし、それが信心とすれば救われた人は「平等かつ、きわめて明瞭に自己の罪悪を見ている」ということになります。しかし、そもそも罪悪といっても一人ひとりの行いは異なるので、明瞭に見えるのならなおさら一人ひとり異なってくるものです。また、親鸞会的定義で言う謗法罪に関していっても、その謗法罪は人によって造った数は同じではありません。

実際の高森会長の話は「ハッキリする」という表現をよく使います。「ハッキリする」では、「ハッキリどうなるのか?」がよく分からない表現です。「何がハッキリするのか?」と聞けば、「地獄一定と極楽一定の自己がハッキリする」と高森会長は答えますが、では「地獄一定と極楽一定の自己がハッキリどうなるのか?」については「とくかくハッキリする」とか、「救われないと分からない世界だ」「絶対の境地は口では言えない」とよく分からない表現をくり返しています。

二種深信のご文は以下の通りです。

〈二者深心〉。深心といふは、すなはちこれ深信の心なり。また二種あり。 一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなくかの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず。(教行信証信巻・浄土真宗聖典(註釈版)P218)
http://goo.gl/DqVem

凡夫に共通していえるのは、「出離の縁あることなし」(自力不生)の部分です。「罪悪」の重さに関しては、どんな人も共通にはならないからです。

教えてくださいさんが、コメントに書かれたように、一般的な言葉の意味として「深く信じる=ハッキリする」は言葉の置き換えとして問題有りません。
しかし、この二種深信のお言葉に関しては「深く信じる≠ハッキリする」です。そのため、「真宗の教義と安心」でもそこの現代文は「深く信じる」という書き方になっています。

深信の「深く信じる」は、疑心有ることないことなので、高森会長が語るような「ハッキリする」とは異なります。しかし、本願に疑心あることないので、本願はそのままその通りと聞いているのが二種深信の「深く信じる」です。