安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「私は全人類が逆謗の屍とはっきり知らされた、これが知らされていない者は異安心だ」という親鸞会(富山県射水市:会長・高森顕徹氏)のW講師に読んで貰いたい(真宗異安心批判/藤澤教聲著/洗心書房復刊)」の箇所

飛雲のエントリー「信心を偽装しているのがバレバレのお粗末さ: 飛雲 ~親鸞会の邪義を通して~」を読んで思うことがあったのでエントリーします。
エントリー中の「W講師」は私が親鸞会講師部に在籍していたころの上司でもあった人物です。よく知っている「W講師」に是非読んでもらいたい文章を紹介します。

以下「飛雲」より引用。

W講師曰く、

私は全人類が逆謗の屍とはっきり知らされた、これが知らされていない者は異安心だ

お笑いです。信心を偽装しているのがバレバレのお粗末さ: 飛雲 ~親鸞会の邪義を通して~

紹介する文章は、何度か引用しています「真宗異安心批判/藤澤教聲著/洗心書房復刊」からです。同書はamazon等のネット書店では取り扱っていないので読んでみたい方は、洗心書房さんに直接問い合わせをお願いします。

以下、真宗異安心批判(P97-P98)より

  • 10.信機とは

【問】ある人が言われるには、自己の罪悪を見つめてどうにもこうにもならない行き詰まったとき*1、初めて如来のお慈悲に徹底する事が出来ると申されました。この自己の罪悪に目覚めて行き詰まった時を信機というのでありますか?


【答】それは第十八願の二種深信の信機ではありません。それはまだ信前の罪悪観である。もちろん信前において因果の道理を聞けば、自己の罪悪の一分は知られる。これは求道の精神になるであろう。これも信前に必要ではあるが、これを以て浄土真宗の信機を同一にみることは大変誤りである。
いかに深刻に自己の罪悪が見つめられても、如来の救わずにおられぬ勅命に目がつかねば、恐ろしい心はやまない。恐ろしい心があるあいだは、未だ自分は価値づけておるのであります。
又どの位自己をみつめたならばよいのであろうか、自分が自分をみつめるのが信機であるとういうならば、人々によって深い浅いが出てくるであろう。もしそれであれば信機は自力になる。
そこで第十八願の信機は、自力の「はからい」のつきた有様であって、それは自分で自分の計らいが廃るものではない。もし自分で自分の計らいが廃るというならば、血をもって血を洗うようなもので、計らいはますます深くなる。そこで、計らいを捨てることは、如来の勅命を聞かねばならぬ。如来の勅命により仏智に照らされたとき、自力の計らいはダメであったということが知られ、徹底した罪悪深重の凡夫であることが味わわれるのであります。
要するに、自己の罪悪を内省し、見つめるということは信仰に入る階梯にはなるけれども、直ちに第十八願の信機ではない。第十八願の如く教えるものは、信機秘事の異端者であります。よくよく注意せねばなりません。(宝章第六号/真宗異安心批判/P97-P98)

*1:飛雲で紹介された「全人類が逆謗の屍とはっきり知らされた」と言うW講師【浄土真宗親鸞会(富山県射水市・高森顕徹会長)】の発言に該当