安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

二種深信は「矛盾した二つのことが同時に知らされる」ことではありません(補足)

獲信した人は皆さん『機の深信』だけはハッキリするのでしょうか?(さくらもちさんのコメント) - 安心問答(浄土真宗の信心について)の補足です。
二種深信は、機法二種一具の深信といわれます。二種とは、機の深信と法の深信です。
二種とあっても「二種類別なものがある」という意味ではありません。

一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。 二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなくかの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず。(教行信証信巻より・浄土真宗聖典(註釈版)P218

「一つには」「二つには」とは、説明の都合上前後が出来る*1ために数字が書かれているだけです。「二種類の別のものが起きる」という意味ではありません。


二種深信は、真実信心をあらわされたもので、真実信心を二つに分解されたのではありません。また、真実信心は「二つの心が同時に起きる*2」とか「二つの心が順番に起きる*3」というものでもありません。
二つの別の心が起きると思うと、矛盾したとしか思えなくなります。
二つの別の心が順番に起きると思うと、「機の深信が先で、法の深信が後だ。」とか「地獄行き間違いないとハッキリして(まず堕ちて)から、助かるに間違いないと知らされた」という表現になります。一つの信心ですから、そのような前後はありません。


機の深信も、法の深信も真実信心をあらわされたものです。

機の深信は、地獄行きの自分の姿がハッキリ知らされることではなく、ただ今の自分、また過去に自分がやってきた行為(今までやってきた功徳、聞法、自力の念仏)は、生死を離れるためには全く役に立たないと知らされることです。別の言葉で、自力無功といいます。

自力のこころをすつといふは、やうやうさまざまの大小の聖人・善悪の凡夫の、みづからが身をよしとおもふこころをすて、身をたのまず、あしきこころをかへりみず(唯信鈔文意・浄土真宗聖典(註釈版)P707

唯信鈔文意には「あしきこころをかへりみず」と言われています。自分がやってきたいろいろな善や、自分でこれでよいと思ってきたこと、こうすれば助かるだろうと予想してそれにしがみついていた「あしきこころ」を顧みないことです。それを自力の心を捨てることだと言われています。
自力を捨てることですから、これを捨自とも捨機ともいいます。


自力の心を捨てるということは、それ単独で成り立つことではありません。
すでに呼びかけて働いておられる南無阿弥陀仏を、自力の心で今まではねつけていたわけですから、自力の心を捨てるとは、そのまま阿弥陀仏の仰せを聞いたことになります。必ず浄土往生させると誓われた本願を知るのが法の深信です。
捨自は、そのまま帰他(他力に帰る)ことになります。
また、自力無功と知らされるとは、そのまま阿弥陀仏にまかせることですから、他力全託、託法といいます。


自力を捨てることと他力に帰することは、表現上別の言葉ですが、同じ事をいわれています。自力を捨てたということは他力に帰したということです。他力に帰したということは、自力を捨てたということです。
また、自力無功と知らされたと言うことは、他力全託したということです。
文字で書けば二つあっても、二つの別のものがあるのでも、矛盾したものが同時にあるいは、順番に起きることでもありません。


二種深信といっても二種類の別々の深信があるのではありません。他力信心を二種深信というのですから、一つのことをいわれてたお言葉です。
前日のエントリーに関連していえば、矛盾した二つのことがおきるのではないので、驚天動地の体験ともなりません。

まとめ

最後に図にしてみました。

二種深信 - 捨機即託法 捨自即帰他
機の深信 自力無功 捨機 捨自
法の深信 他力全託 託法 帰他
  • 機の深信と法の深信は矛盾したことをいわれているのではありません。
    • 自力を捨てる(機の深信)ままが他力に帰したこと(法の深信)になるため。
  • 二種深信は、二つのものが同時に起きることではありません。
  • 二種深信は、二つのものが順番に起きるのでもありません。
    • 機の深信が立ってから法の深信が立つということはありません。
    • 機の深信だけ立ったとか、法の深信だけ立ったということもありません。

*1:説必次第・・説くに必ず次第す

*2:二心並起

*3:前後起