安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

念仏は救いの法ということー「信者めぐり」より(9/18の追記)

2011-09-18のエントリー
南無阿弥陀仏と称えてさえいればいい、安心だというような感覚に陥っていしまいそうです。それでもかまわないのでしょうか。(吉北さんのコメント)? - 安心問答(浄土真宗の信心について)について追記します。
こんなことが言いたい」でも紹介されていた「信者めぐり(宇野最勝・竹田順道編、大八木興文堂発行)*1」から、念仏と救いの法についての部分を紹介します。

口から現れて下さるお念仏は、そちの助かる法はこれであるぞと、出して見せて下さるのじゃ、この御六字のお働き一つによって確かに確かに参らせていただかれるのじゃ。
そちは聞きようが足らぬ足らぬというが、聴聞で助かるのじゃない、聞いても聞かぬでも、聞かぬ先からそちの物だとある、御誓約をきくのじゃぞよ。
南無の為の阿弥陀仏というは、そちのいうこときかぬ機の為のお助けということ、庄松はたのむ一念のお謂われを、大の字なりになって寝てみせたとある。用のいらぬ安いこと、よくよく考えてみよ。(信者めぐりー第三編光触寺物語より 証心院釈静照師の言葉 P277)

そちが機が聞こうとしても万劫たっても聞くこと叶わぬぞよ。
そちの聞くことまでも六字の中にこもっている。その六字は、そちの聞こえぬ心、得られぬ心、落ち着かれぬ心、きかぬ昔の心のままで、今より引き受けて仏にする心が満足してあるのじゃぞよ。この六字の心を八箇条の御文章の中に「これ即ち我らが往生の定まりたる証拠なり、されば他力の信心獲得すというも、ただこの六字の心なりと落居すべきものなり」とある。又六字をさして「これ即ち我らが往生の定まりたる、他力の信心とは心得べきものなり」とある。また御化導には「我ら衆生の往生の体は南無阿弥陀仏ときこえたり」とありますぞ。ゆえに信心をとったというは六字のまま、法のままが聞かれたことじゃ。(信者めぐりー第三編光触寺物語より 証心院釈静照師の言葉
P281

南無阿弥陀仏は救いの法であって、私が称えたという行為が助ける手段になるのではありません。
救いの法は、南無阿弥陀仏となって成就されているので、それをそのまま聞いたことを信心といいます。