安心問答(浄土真宗の信心について)

浄土真宗の信心についての問答

以名摂物録 後編(松澤祐然述)「30 名号あって信心なし」

※このエントリーは、「以名摂物録 後編(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。

※原文には、今日の目から見て差別語とみなすべき語彙や表現もありますが、著者が故人であること、当時の説教本であることも考慮してそ
のまま掲載しています。

30 名号あって信心なし

「信火内にあれば行煙外にあらわる」
「あれば鳴る無ければ鳴らぬ鈴玉の、胸に六字があればこそ鳴る」
「真実の信心には必ず名号を具す」
 何れも三信と十念とは、切るに切られず、離すに離されず、信行具足してあるぞということを、お知らせ下された御言葉であります。
 
 
 そこでこの必具の具の字について。体具と相具の二義あることは皆様も兼ねて聞いて御座ろうが。体具というは、信心の当体に名号が具足してあるから。至極短命のものならば、信ずる信の一念に死んでしまい。口で南とも無ともいわずに、命終わっても。三信十念の誓いに背かず、真実報土の往生に間違いないぞと。御知らせ下されたが、必具名号の御言葉であります。
 
 
 是によって、法然上人の選択集の上には。三心章の信心の次に、四修章を開いて。能修能行の十念の勤めぶりを、御示し下されてあるけれども。我が祖聖人に至っては、能修能行の有りだけは。必具の二字を以て信体に収めてしまい。信の巻の外に能行の巻を開かずして。信心一つで、入正定聚必至滅度の、証に至ることを。御示し下されたが、教行信証の四巻であります。
 
 
 しかしこの体具ということは。信心の勝徳を顕す、理論上の御話しにして。事実の上に来て見れば、信じたばかりで称うる隙のない程の。短命のもののあるべき筈はないことで、観経の下品下生の悪人でさえ。
如是至心令聲不絶具足十念称南無阿弥陀仏」とあれば、如是至心とは信心のこと。その次に具足十念とある十念は、体具の十念では、なかったので。声をして絶えざらしめて、南無阿弥陀仏と称え出したものなれば。是を名づけて相具という。


 事実信ぜられたものならば、名号六字が相の上に顕れて。必ず口に称え出すべきは、当たり前ではあるゆえに。真実の信心には必ず名号を具す、と仰せられたものである。然るに、信心は頂いたようなつもりでも。至極短命のものならいざ知らず。二時間余りも喋り通しておりながら。念仏の声の更に顕るる相のない。前席の同行の如きものは。確かに如実の信者でないゆえに。
信心ありとも名号を称えざらんは詮なく候ふ」と御叱り遊ばされたる次第であります。


 然らば、煙のあるは火の有る証拠。鈴の鳴るのは玉有る証拠。名号の称えらるるものならば、必ず信心が頂かれてあるものかというに。そうは中々、一概には申されんので、ここを信の巻には。
名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり
と仰せられ。末灯鈔には。
また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。
と御誡め下されて。玉があるから鈴はなり。火のあるところに煙たつ、天然物とはことちがい。人の口には、虚偽があるから油断はならん。


 つまらんご馳走と思うても、口では結構というておる。悪い子供と知りながら、善いお子さんとほめはやす。いやな癖ある口なれば、後生菩提の問題も。六字の手柄を信ぜずして、口先ばかりに力を入れ。称うるものを、迎えとるぞの弥陀じゃもの。称えておれば参れると。心にもない念仏を。いくら勤めて励んでも。六字の深い御力が。心に届いてないものは、浅い自力の信ゆえに。往生の望みは叶わぬぞ。と、信からは行を督し、行からは信を提して。口と心と三信十念具足したものでなかったら。如実のものでないぞよと。
 
 
 御示し下されたが、末灯鈔の次の御言葉で。
されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。
と仰せられた次第であります。