安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

阿弥陀様に任したぞーと自分で思案することなく生活し聴聞のご縁があれば足を運ぶ。なにかやっぱりこれも根本的に間違っている感じがするのですがどうでしょうか?(もとさんのコメント)

もとさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

自分の心を問題にすることがダメなのですね。

では私はどうやって生活すればいいのでしょうか。
阿弥陀様に任したぞーと自分で思案することなく生活し聴聞のご縁があれば足を運ぶ。
なにかやっぱりこれも根本的に間違っている感じがするのですがどうでしょうか?

あとひとつ疑問なんですが、だれかこの安心問答や他のサイトを見て救われた人はいますか?
どうしても凡夫の知恵では善知識に直接会って話を聞いたほうがよいように思ってしまうので…(もとさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20110915/1316077049#c1316332580

どうやって生活したらいいか?については、信を得た上での生活ということならば、真宗宗歌にもありますが「六字のみ名をとなえつつ 世の生業にいそしまん。海の内外のへだてなく み仏(おや)の徳のとうとさを わがはらからにつたえつつ 浄土(みくに)の旅をともにせん」となります。

しかし、コメントの文脈からすると「信を得るまではどうやって生活すればいいのでしょうか?」とのお尋ねと推察します。
もとさんが、どのような環境で生活をされているかはわかりませんが、「仏法は聴聞に極まる」といわれるように、聞いて疑い無いところまで聞いて下さい。それは「どこで、誰から、何回聞く」ということではありません。阿弥陀仏の本願力回向を聞くと言うことです。
大事なことは、阿弥陀仏から聞いて疑い無いことを信心といいます。○○さんの言葉に疑いないということではありません。

自分で「まかせたぞ」と思うのが信心ではありません。「まかせよ」の阿弥陀仏の仰せを疑い無く聞いたのを信心といいます。

もう一つのお尋ねですが、「サイトを見て救われた」というのは、文面どおり理解するとそんな人はありません。「阿弥陀仏の仰せを聞いて救われた」人しかありません。

お尋ねになりたいことは、ブログやサイトの文章を読むだけで、人に直接尋ねることなく救われた人はいるのでしょうか?ということではないかと思います。それについては、分かりません。

私が今までお話ししたことがある人は、ブログを読んでコメントをしていたけれども、これではどうにも時間が掛かるということで、直接電話をかけてこられたり、直接会うことになりました。

当事者に取って急ぎの件となれば、メールよりは電話となるでしょうし、重要なこととなれば、電話よりも直接話を聞こうという気持ちになるかと思います。
ただ、○○という人間に聞いたから救われるというのでは、知識帰命になってしまうので間違いです。阿弥陀仏の仰せを聞いて疑い無いのが信心です。
本願力によって必ずただ今救われます。