安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

yさんのコメントに追記。考えすぎの人に対して「七里和上安心示談」より紹介

yさんのコメントについて追記です。
yさんは、おそらく考えすぎの状態になっておられるのではないかと思います。
以前も紹介しました「七里和上真宗安心示談 佐々木徳量編:洗心書房」から、関連した箇所を紹介します。

ある人問うていわく、
「私はややもするとこれでは理屈に転げてはいるまいかと思えば、気持ちが悪うござります。いかがすればよろしゅうございますか?」

和上答えていわく、
「その気遣いは即ち疑いなり、もしあなたの望みどおりになって、これこれと安心ができたらすなわち機で固めているゆえ自力なり、そんなことを気遣いだせばいよいよ御法義に背く道に行くなり」

ある人いわく、
「さらばとてかかる者をと押さえておけば、また押しつけ往生にはあらずやと心苦しくござります」

和上いわく、
「すべて我が心はいうことを聞かぬものゆえそのままおいて、さらに本願の御まことを仰ぐばかりなり、されども心を相手にすまいと思えばなお相手になるゆえ、いかなる心がおこってきてもままよ、この我が心が浄土参りの因になれば機の善悪の気づかいもおこるけれども、我が心中に喜ばれても、有り難くても、心に信じても、口に称えても、それでは往生はできぬ、また悪い方でいえば、貪欲・瞋恚も慢・疑もみな地獄因ゆえ、善からんとも悪しからんともみな地獄者と思えのご教化なればさらに我が機の善悪を気遣うことはない、かかる地獄者をこのまま御助けとは御有り難やとお慈悲に立ち返るばかりなり。(P67)」※改行・現代仮名遣いはこちらで加えました。

yさんが「どうしたら聞けるのか」と悩まれるのは、自分の機ばかりを問題にしている状態です。
そのまま聞く以外にありません、私の心がどうであろうと、善くても悪くてもそれによって往生が決まるのではありません。

「どうしたら無疑心になれるのか?」と、自分の心をどれだけ責めても無疑心にはなりません。無疑心は、本願の仰せをそのまま聞いただけだからです。ですから自分の心の「あるべき姿」を問題にする時点で、本願の仰せに、自分の考え(こうあるべき姿)を加えています。

七里和上の言葉で言えば、「すべて我が心はいうことを聞かぬものゆえそのままおいて、さらに本願の御まことを仰ぐばかりなり」です。そのまま本願の仰せを仰いで聞いて下さい。必ずただ今救われます。