安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

以名摂物録 後編(松澤祐然述)「10 丸飲み込みは大の禁制」

※このエントリーは、「以名摂物録 後編(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。

※原文には、今日の目から見て差別語とみなすべき語彙や表現もありますが、著者が故人であること、当時の説教本であることも考慮してそ
のまま掲載しています。

10 丸飲み込みは大の禁制

 前席より御話しを申しかけた、第十八願の上に於いて、三信十念の御誓いがある。三信とはたのむこと、十念とは称うること。このたのむと称うると有るについて、不審の数々を述べてみましたが。実際、阿弥陀如来から助けて頂くについては。たのまねばならぬのか、称えねばならぬのか、二つ揃わねばならぬのか、一つ欠けてもよいのか。またたのむと称うるに、軽重が有るのか、前後が有るのか。但しはたのむも称うるも、要らずして助かるのか。それこれの辺が幾重にも不審でたまらんのである。
 
 
 しかも動かすべからざる事実問題のあるは、この世の親子にして。親が我が子を助けるについて、子どものたのみ心や、称うる口に、その必要を更に認めてないのみならず。たとい親でなくとも、真実人を助けるという主義の上には。たのませてから、称えさせてからというような理屈があるべき訳は決してない。然るに阿弥陀如来とも申し奉る摂取不捨の親様が。我等衆生を助けるに、一心に弥陀をたのめよの。名号を称えよのと仰せられたは、誠に解らんことである。


 世間普通の考えから言うて見ると、第十八願の御誓いは。「設我得仏十方衆生、若不生者不取正覚」と是だけで用事が足りそうなものである。弥陀が仏に成るについては、十方の衆生を若し極楽へ生まれさせずば、我も正覚を取らんぞと、御誓いなされたなら。いかにも御慈悲に駆け引きのない、真実づくめのことが明瞭であろうに。たのむものと称うるものに限って、生まれさせると仰せられては。余りに御慈悲が御倹約過ぎて、世間並みの相場よりは、一層下落した親様のように思われて。なかなか本願の思し召しが解りかねるので、遂には種々の異解異安心が起こって来るのも仕方のない次第であります。


 そこでこれらの異解や疑問が、何から起こって来るやというに。多くの人々が本願の思し召しを、ただ一応の聴聞をして。たのめ助けるの仰せじゃもの、たのまずに済むものかと。頭から丸の見込みになさるから。忽ちたのめの御意が、胸につかえ、称えよの仰せが腹に落ちかね、どうたのむのじゃ、どう称えるのじゃと、何時まで経っても、世話や心配がやまぬのじゃ。


 三度三度の食べ物も、蛇や蛙であるまいもの。人間ならば丸飲み込みは大の禁物である。胃弱の人などが、普通のご飯では胃に悪いというて。軟らかに煮返して、喰うて御座るは結構なれど。煮返して軟らかになったからというて。それを丸飲み込みに喰うてしもうたら、何の所詮もない。

 そのようなことならば、むしろ普通のご飯をそのままに喰うて。一口ずつ丁寧にかみ砕き。口の中で粥になるほとよく噛んで、それを飲み込めば。煮返したご飯より、幾倍胃のためによいやら知れんのじゃ。


 私がある医師に、この話をして。病院などに、煮返して病院に喰わせるより。普通のご飯を少量づつ、よく噛んで喰うように、させなさもては如何でありますかと申したれば。その医師は、それは御尤もの説ではあるが。よく噛めというて聞かしても、どれだけ噛めばよいのやら。程度が更に解らんゆえ。

 煮返して喰わせるより外に、仕方はないと申されたから。私はその噛む程度については仙法の中に。一口の食物を、必ず自分の年齢の数だけずつ噛んで飲み込むことに規定してあります。三十歳の人ならば三十噛みと四十歳の人ならば四十噛みである。私も胃に故障の有るときは、しばしば実行してみましたが。非常によいようでありますと申したれば。その医師は、なるほど、それは生理に叶うたところの程度である。仙人などは、そこまで考えておりますか。
 
 
 しかし三十四十位の人は、まだよいが、七十八十の老人となっては、大変でありますなァ。と大笑いして感心せられたことがある。然るに胃病の人が、軟らかに煮返した御飯だからというて。それをろくろく噛みもせず、いつも丸飲み込みにする故に。矢張り胃病の邪魔になる。


 今も丁度その如く、かかる容易い本願の喚び声は、いかにも軟らかなる、たのめ称えよの仰せではあるけれど。頂く此方が、ただ一応の聴聞して、たのまにゃならんとかみ砕かず、称えにゃすまんとそのままを丸飲み込みにするゆえに、いつもたのむと称うるが、胸につかえて難儀して。遂には異安心という、病気が募って来ることになる。
 
 
 私は是を名づけて、御法義の食傷者と申します。折角体を養うために、用いるところの食物を。喰いようの悪いために、返って体を損なう様なことでは、甚だ残念であります。今も無量永劫、心の助かる本願の、ご馳走に逢いながら。聞きようの粗末のために、かえって御法義の食傷病を起こし。往生を仕損ずるようなことでは。実に取り返しはつきませんから、蓮如上人も。

ただおほやうにきくにあらず、善知識にあひて、南無阿弥陀仏の六つの字のいはれをよくききひらきぬれば、報土に往生すべき他力信心の道理なり*1

http://goo.gl/H3I4OD

と御示し下されてあれば。皆様も一応聞いて丸飲み込みにして、不消化の聴聞をなさらずに。幾重にもかみ砕いて、聞いて頂きいことである。

*1:御文章3帖目6通