安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「獲信する前になんらかの予感や兆し、催し等の自覚があるものでしょうか?」(オロナインさんのコメント)

オロナイン 2014/11/23 18:59
唐突ですが、獲信する前になんらかの予感や兆し、催し等の自覚があるものでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20141120/1416470772#c1416736753

id:yamamoya 2014/11/24 17:33
オロナインさん
取り急ぎコメント欄に書きます。
獲信する前には、そのような予感や兆しはありません。人によっては以前よりご法義のことで悩むこともありますが、それも全ての人がそうなるということはありません。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20141120/1416470772#c1416817983

オロナインさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。
コメント欄に書いたことに加える形で書きます。

妙好人の話などでは、それこそ頭についた火を揉み消すような必死さで聞法にあちこち出かける人の話などが出てきます。そのような話を聞くと「救われる前になるとそのような心境に皆なるものなのだろうか」と考えてしまいます。事実私もそのように考えていました。


しかし、それは間違いです。阿弥陀仏の救いは、阿弥陀仏の本願力回向のお働き一つであり、ただ今の救いです。時間がかかったり、段階的に救われていくものではありません。そのため兆しというものはありません。何かの兆しがあって「お?そろそろ私も救われる時が近づいてきた」などと言えるものではありません。

また、そのような兆しがない理由のもう一つは、阿弥陀仏も南無阿弥陀仏もすでに私のまわりにおられるからです。すでにおられるのですから、今更兆しというものはありません。もし、どこか遠くにおられて、段々と私に接近して、やがて私を助けに顕れるということならば、台風接近のように兆しということはあるでしょう。しかし、すでにここにおられるのですから「接近の兆し」ということはありません。

「尽十方無碍光如来」と申すはすなはち阿弥陀如来なり、この如来は光明なり。「尽十方」といふは、「尽」はつくすといふ、ことごとくといふ、十方世界を尽してことごとくみちたまへるなり。「無碍」といふはさはることなしとなり、さはることなしと申すは、衆生の煩悩悪業にさへられざるなり。 (尊号真像銘文)

http://goo.gl/eW5ABI

上記のご文にあるように、親鸞聖人は阿弥陀仏を「十方世界を尽してことごとくみちたまへるなり」と言われています。つまり、阿弥陀仏で世界は満ち満ちていると言うことです。どこか遠くから来られるのではなく、すでに世界におられないところはないのが阿弥陀仏です。また「さはることなしと申すは、衆生の煩悩悪業にさへられざるなり」と言われています。私の煩悩をさわりとされずに救ってくださいますから、私を助けるために煩悩という岩盤を一生懸命砕くのに時間がかかるということはありません。例えば、トンネルに閉じこめられた人が、外からの救助隊が近づいて来たときに、その音で「救助隊か近づいてきた、もうすぐ救われるのだ」と分かるといったようなものではないと言うことです。


大事なことは、「兆し」がないことをもって「自分が救われるのは今ではないな」と勝手に思い込まないことです。すでに「十方世界を尽してことごとくみちたまへるなり」の阿弥陀仏に救われるのですから、それはただ今のことです。ただ今救われて下さい。