安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「真仮みな是れ大悲の願海に酬報せり」の真仮とは何ですか?(頂いた質問)

教行信証真仏土巻の「既に以て、真仮みな是れ大悲の願海に酬報せり。」を、「真(真実)仮(方便)ともに、『すべての人を絶対の幸福に救い摂る』弥陀の大慈悲心から建てられた本願である。」と、3月号の顕真に書いてありましたが、原文を読むとこれも違うように思うのですが、ここはどういう意味なのでしょうか?(頂いた質問)

結論からいいますと、顕真3月号、顕正新聞3月15日号に掲載された「意訳」は間違いです。
「真(真仏・真土)仮(方便化身・仏土)は、阿弥陀仏の本願の結果として成就したものである」という意味です。


元の真仏土巻の文章は、少し長いので大まかにどういう事が書かれてあるかを書きます。(全文は文末に掲載)

しかるに願海について真あり仮あり。ここをもつてまた仏土について真あり仮あり。」といわれ、阿弥陀仏の本願が成就した結果として浄土はあるのだけれども、阿弥陀仏の本願に真と仮があるので、浄土と言っても真の仏土と仮の仏土があるといわれています。


次に「選択本願の正因によりて、真仏土を成就せり。」といわれています。
阿弥陀仏の第18願によって、真仏土は成就したのだといわれています。
もう一つの化土について、「仮の仏土とは、下*1にありて知るべし。」といわれています。化土については、次の化土巻に説明するということです。


その後に「すでにもつて真仮みなこれ大悲の願海に酬報せり。ゆゑに知んぬ、報仏土なりといふことを。」といわれています。
真の仏土も、仮の仏土も阿弥陀仏の本願の結果として成就したものだから、「報仏土」です。阿弥陀仏の本願を因とした場合、因に報いて結果として成就したものであるということです。


その後「真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す。これによりて、いま真仏・真土を顕す。これすなはち真宗の正意なり。」と結論を書かれます。
阿弥陀仏の本願に真と仮があることを知らないから、阿弥陀如来の広大なご恩を受け取ることが出来ないのである。だからこの真仏土巻で、真仏と真土を明らかにした。これが真宗の正意であるといわれています。


真の仏土は、18願によって成就した浄土であり、化身土は、19願、20願を真実と思って実行する行者が往生する世界です。
19願や、20願を真実と思い、18願真実を知らない人は阿弥陀如来の広大なご恩も知らされないし、真仏土に往生し即成仏することはありません。

真仮を知らないと親鸞聖人が仰るのは、19願、20願を真実だと思って実行している人のことです。実行している人に「それは真実ではないよ、方便だよ」というということは、「それは真実ではないから早く離れなさい」「真の仏土には往生できないよ」と、方便を戒められているのです。
決して方便の行や信心を勧めておられるのではありません。


「19願も、20願の阿弥陀仏が建てられたのだから必要に決まっている」というのは「19願、20願の行者が参る浄土も阿弥陀仏が建てられたものだから報土であり必要に決まっている」と、当時の聖道門や浄土門の人が言っていたのと同じ理屈です。
それに対して「真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す。これによりて、いま真仏・真土を顕す。これすなはち真宗の正意なり。」と仰っています。本願の真仮がわからないから、報土の真仮もわからない。阿弥陀仏阿弥陀如来の広大なご恩も知らされない。真仏、真土を明らかにして、これが阿弥陀仏の本願の本当の御心であると教えておられます。

19願は必要かどうかというのは、「お釈迦様が教えとして説く必要があったかどうか」という意味ではなく、「私が実行する必要があるかどうか」です。
親鸞聖人は、方便の行と信を戒められました。教えを否定されたのではありません。

勧めておられるのは「真仏・真土」であり、ただ今救う本願力によって往生定まる身に救われることです。その阿弥陀仏の本願にただ今救われてください。

参照:教行信証真仏土巻 浄土真宗聖典(註釈版)P372

 それ報を案ずれば、如来の願海によりて果成の土を酬報せり。ゆゑに報といふなり。しかるに願海について真あり仮あり。ここをもつてまた仏土について真あり仮あり。
 選択本願の正因によりて、真仏土を成就せり。真仏といふは、『大経』(上)には「無辺光仏・無碍光仏」とのたまへり、また「諸仏中の王なり、光明中の極尊なり」(大阿弥陀経・上)とのたまへり。{以上}『論』(浄土論)には「帰命尽十方無碍光如来」といへり。真土といふは、『大経』には「無量光明土」(平等覚経・二)とのたまへり、あるいは「諸智土」(如来会・下)とのたまへり。{以上}『論』(浄土論)には「究竟して虚空のごとし、広大にして辺際なし」といふなり。
往生といふは、『大経』(上)には「皆受自然虚無之身無極之体」とのたまへり。{以上}『論』(浄土論)には「如来浄華衆正覚華化生」といへり。また「同一念仏無別道故」(論註・下)といへり。{以上}また「難思議往生」(法事讃・上)といへるこれなり。
 仮の仏土とは、下にありて知るべし。すでにもつて真仮みなこれ大悲の願海に酬報せり。ゆゑに知んぬ、報仏土なりといふことを。まことに仮の仏土の業因千差なれば、土もまた千差なるべし。これを方便化身・化土と名づく。真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す。これによりて、いま真仏・真土を顕す。これすなはち真宗の正意なり。経家・論家の正説、浄土宗師の解義、仰いで敬信すべし。ことに奉持すべきなり。知るべしとなり。

*1:下・・次の「化身土巻」のこと。