安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

顕真4月号「念仏成仏これ真宗」のテレビ座談会法友通信について思ったこと2

顕真4月号「念仏成仏これ真宗」のテレビ座談会法友通信について思ったこと - 安心問答(浄土真宗の信心について)の続きです。

2「教学試験の推進」について

もし智慧高才をもつて本願となさば、愚鈍下智のもの*1はさだめて往生の望みを絶たん。しかも智慧のものは少なく、愚痴のものははなはだ多し。(選択本願念仏集・浄土真宗聖典七祖篇(註釈版)P1209

知恵や才能が条件の本願であるならば、愚かで知恵の劣った者は往生の望みは絶たれてしまう。しかも、智慧のあるのは少なく、愚かな者の方がずっと多いと言われています。


親鸞会の活動で当てはめるなら、「教学試験の推進」にあたります。機関誌には、「70歳で大導師試験合格」「5回目の講師試験合格で大講師に」「85歳で教学試験合格」といった記事がたびたび掲載されます。

親鸞会で行われる教学試験は、教学聖典という一問一答式のテキストを暗記してそれに答える形式です。講師試験は、問いが少し変わりますが、回答として書くお聖教の根拠は、教学聖典と一字一句、句読点も含めて同じでないと満点にはならない点では同じです。智慧というか、暗記力、記憶力がどれだけあるかで決まる試験です。


現在でも、会員になると年齢を問わず上記の教学試験が推進されます。お聖教のご文に親しむこと自体は悪いことではありませんが、親鸞会の中では「これで求道が進む」かのように推進され、暗記が出来ない人は大変ストレスを受けています。


親鸞会に在籍していたときは、70代、80代の会員の方が「自分は、何を聞いても覚えられないからダメです」「講師の人や、若い人は、聞いたことを全部覚えてようですから凄いですね。自分にはとても無理です。」と発言されるのをよく聞きました。
加えて、親鸞会で行われる「信心の沙汰」は、当日の法話や座談会で、「どう聞いたか」といっては「その時会長はどう仰ったか」をお互い確認する会合になっており、これも記憶力に自信がない人は発言することが無くなり大変ストレスを受けています。

  • 「テキストを記憶できないものは救われない」
  • 「法話の内容を覚えてない無いものは救われない」
  • 「法話の話を人に話できるほど理解できない者は救われない」

これが、多くの会員が思っていることです。

しかし、上記のようなことが出来る人は、多くありません。
これを何十年と繰り返して真面目にやってきたのが、親鸞会の講師部や幹部会員です。
親鸞会的に上記のことが「できる」人が「できない」人に向かって、「自分はできたのだから努力せよ、出来ないと信仰が進まないぞ」と同調圧力をかけているのが実態です。


それは上記のことが「できた」あるいは「できるのが善」という立場に立ってのものの考え方です。それが「できない」人はどうしたらいいのかという、選択肢は親鸞会教義にはありません。まさに「愚鈍下智のものはさだめて往生の望みを絶たん。」となっています。


阿弥陀仏の本願は、救いに条件がある場合「往生の望みを絶たれた」人の目線に立って、必ず救うと本願を建てられました。

決して衆生の上に立って「救ってやる」という本願ではありません。救済条件があるために、往生の望みを絶たれた私のために、ともに浄土に往生しようと呼びかけられる本願です。


諸善を選び捨てられ、念仏を選び取られたのは、私を往生させるためです。「善を勧められたはずだ」と強弁する人は、自らが「できる」立場でものを考えているからです。
「親鸞会的善」がどうしても必要と思うなら気が済むまでやればよいでしょうが、それが出来ないと嘆いている多くの会員に「自分はやってきたのだから、あなたも努力しなさい」というのは、阿弥陀仏の本願とはほど遠い考えです。


親鸞会で推進されることが出来ない人は、会を去っていきます。残っている人は、実際にやって来た人ばかりです。
そんな「(親鸞会基準で)選ばれた中の選ばれた人」には、条件があると排除される人を救うために建てられた本願は、聞いても分からないのかも知れません。


阿弥陀仏の本願は「選ばれた中の選ばれた人」のために建てられたのではありません。「選ばれなかった人」のために建てられた本願です。だから、いろいろな意味で「自分は選ばれなかった」「往生の望みを絶たれた」人を目当てに、救済をするという他力の救いがあるのです。選ばれた中の選ばれたドえらい人には分からない本願です。

おまけ

「偉い人にはそれがわからんのです」(該当箇所は最初の15秒のみ)

*1:愚鈍下智のもの・・愚かで智慧の劣ったもの