安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

獲信していない人は「不信心の行者」と言っていいのでしょうか?(ぼたもちさんのコメント)

ぼたもちさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

「信心の行者」というのは、獲信して“極楽”にずんずんと向かっている人ですよね?
 では、獲信していない人は「不信心の行者」と言ってもいいのでしょうか?(ぼたもちさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20110408/1302208211#c1302246621

「信心の行者」は、極楽に向かっている人には違い有りません。
ただ、「信心の行者」と言った場合の「行者」は「行ずる人」ということで、他力の念仏を行ずる人、念仏する人という意味になります。歎異抄で言えば「念仏者」と同じ意味になります。


「行者」を、お尋ねのように「どこかへ向かって行く人」とした場合は、「不信心の行者」という言い方はあまり適当ではないと思います。「不信心の人(者)」の方がよいと思います。
(「自力の行者」という言い方はあります*1が、これは自力で諸行や自力念仏を行じる人のことなので、この場合の「行者」と言葉の定義が異なります。)


「どこかへ行く人」ではなくて、「浄土へ行けない人」「生死に止まる人」が不信心の人だからです。
死んだら別の世界へ行くとか、後生へ飛び込むとかいろいろな言い方が有ります。しかし、阿弥陀仏の目からご覧になると、生死を離れることが出来ない者であり、生死を繰り返す世界からどこへも行くことが出来ない者が、私です。

御文章には、「不信心のともがら」「不信のひと」と表現されて以下のように書かれています。

不信心のともがらもあるべし。もつてのほかの大事なり。そのゆゑは、信心を決定せずは今度の報土の往生は不定なり。されば不信のひともすみやかに決定のこころをとるべし。(御文章5帖目11通・御正忌・浄土真宗聖典(註釈版)P1197

不信心の輩は、「今度の報土の往生は不定なり」といわれています。浄土往生は出来ませんといわれています。「浄土へ行けない」といわれています。
「浄土へ行けないならどこへ行くのか?」といえば、生死輪転の家に止まります。

生死輪転の家に還来ることは、決するに疑情をもつて所止とす。(正信偈・浄土真宗聖典(註釈版)P207

正信偈のお言葉でいえば「生死輪転の家に還来する」のであって、どこかへ行くのではありません。死んでどこかへ行くと思っていても、「生死輪転の家」からは一歩も出てはいません。「生死輪転の家」からはどこへも行けないのが私の姿です。

どこへも行けない私に向かって大慈悲を起こされた阿弥陀仏が、「浄土へ来なさい」と呼びかけて下さっているのが南無阿弥陀仏です。その仰せを聞いて念仏する人が、念仏者であり信心の行者です。

*1:来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆゑに。臨終といふことは、諸行往生のひとにいふべし、いまだ真実の信心をえざるがゆゑなり。御消息1・浄土真宗聖典(註釈版)P735