安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「聴聞」と「教学」について(リフレインさんのコメント)

リフレインさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

「教学をあまり重要視しない」とか、「教義なんか勉強するより御信心いただけるといい」と、教えて下さるかたがあります。
「御信心いただけたら、教義・教学・拝読」は、どうでもよいという理解は、間違っていると思いますが。また、聴聞も御信心いただいた、と言ってしないのは、おかしいと思いますが、これは、私の解釈が間違っているのでしょうか?よろしくお願いいたします。(リフレインさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091228/1261999490#c1262003048

回答します。
「聴聞もご信心を頂いた、と言ってしない」というのは、間違いです。しかし、「聴聞」という言葉をどう使っているかによっては回答が変わります。
リフレインさんが、どういう立場の方か、またリフレインさんに上記のように言われる方がどのような方かは分かりませんが、回答が変わる場合を二つ考えて見ました。

「聴聞」について

1つめは、「親鸞会でいわれる聴聞」の場合です。
いわゆる「親鸞会でいわれる聴聞」は、「親鸞会館に足を運ぶこと(本部参詣)」のことです。ですから「火の中分けても聞け」が「どんな経済的、肉体的に厳しい状況でも親鸞会館に足を運べ」という意味になって使われます。
コメントにいわれる「聴聞」が「親鸞会館に足を運ぶ」こととすれば、親鸞会館に行って会いたくない方があるのかもしれません。また嫌な思いをされたことがあるのかもしれません。
上記のような言葉の意味と状況からすると、以下のような意味になることも予想できます。ただし、リフレインさんに話をされるかたの「信心」が、真実かどうかは分かりませんので、あくまでもその人の「心情」からいいます。

「聴聞も御信心いただいた、と言ってしない」

「親鸞会館に足を運ぶのも、経済的、体力的、精神的に厳しい中なんとか頑張ってやってきたけれども、御信心を頂いたから、嫌な思いはもうしたくない。」

この人にとって「聴聞」というのは「阿弥陀仏の本願を聞く」ことではなく「足を運ぶこと」なので、「仏法聞きたくない」のではなく「嫌な思いはしたくない」いう意味で使っているのだと思います。

2つ目は、その方が今まで足を運ばれていた場所がどういうところで、どんな話があったのか分かりませんが、「要の抜けた話は、もう無理して聞きに行く理由はない」ということなのかもしれません。

阿弥陀仏の本願を聞かせていただくのが聴聞ですから、信前信後を問わず聴聞は大事です。信後ほど、聴聞しなければなりません。「信心を頂いたからしない」という文脈でいわれる「聴聞」は、「獲信の手段として足を運ぶ行為」ということになります。

教学について

もう一つの、「教学を重要視しない」ということですが、「教えを学ぶこと」はとても大事な事です。教えによらねば私たちは、阿弥陀仏がおられることも、南無阿弥陀仏もなにもわかりません。
ですから「教義なんか」と、教えを軽視する考え方は間違いです。
なんのために教学をするかが大事です。

あやまつて学問して名聞・利養のおもひに住するひと、順次の往生、いかがあらんずらんといふ証文も候ふべきや。(歎異抄12章)

このように、人にほめられる、人に勝つための学問になれば、間違いです。浄土真宗での学問をするということは、続いて歎異抄12章のお言葉を使えば

学問せば、いよいよ如来の御本意をしり、悲願の広大のむねをも存知して、いやしからん身にて往生はいかがなんどあやぶまんひとにも、本願には善悪・浄穢なき趣をも説ききかせられ候はばこそ、学生のかひにても候はめ。(歎異抄12章)

いよいよ阿弥陀如来の本当の御心を知り、大慈悲の願の広大なことが知らされ、私のような者は往生できないだろうと思っている人にも、本願には善悪、浄穢の差別がないことを説き聞かせることができてこそ、学ぶ意味があるのだと言われています。

学問など要らないという人も、お釈迦様をはじめとして、親鸞聖人が教えていかれたみ教えによってこそ、本願の御心をしることができたのです。それを忘れて教学を軽視するようなことは言うべきことではありません。

ただ、「親鸞会で言う教学」といえば、「教学聖典を暗記し、試験に何度も合格する」ことです。「暗記することや、試験に合格することが最も重要なことだと思わない」というのであれば問題はありません。短冊を暗記することに時間をかけて、「如来の御本意を知る」こともなく、「悲願の広大のむねをも存知」することがないのならば、「名聞、利養の学問」、または学問をして智慧を磨いて救われようとするのは聖道門の仏教になってしまいます。

学問など要らないという人も、お釈迦様をはじめとして、親鸞聖人が教えていかれたみ教えによってこそ、本願の御心をしることができたのです。それを忘れて教えを軽視するようなことは言うべきことではありません。

「学問したら救われるのではない」ということが言いたいのであれば、文字通りそういえばよいと思います。
自身が救われるかどうかは、南無阿弥陀仏のお働き一つです。「御信心いただけたら、教義・教学・拝読」は不要と言えば、信心獲得のために「教義、教学、拝読」が必要ということになってしまいます。御信心がいただけたら、人にもお伝えするときにはなお必要ですから、余計に不要にはならないはずです。