安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

親鸞会の旧教学短冊・「信後絶対でない心10書け」とは?(maryさんのコメント)

maryさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

以前、親鸞会の改定前の教学聖典(高等科真宗学5号)にあった「信後絶対でない心10書け」という問題が続けて10問あり、トータル100の心が書かれていました。
(1)どういう意図で書かれた問と答えであったと思われますか?
(2)改定後載せなくなった問題の中の一部ですが、なぜ無くしたと思われますか?
(3)また、そこに書かれてあった心は信後は全て出なくなりますか?それとも、出ますか?もしくは、出なくなるものと、出てくるものがありますか?(maryさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20110123/1295733870#c

「信後絶対でない心10書け」は、私が会員になったころにはすでに無くなっており覚えたことがありません。そういう問題が以前はあったという話は聞いていますが、詳しくは知りません。

(1)(2)に関しては、問いから私が思ったこととして書きます。会に在籍した当時に誰から聞いたことがないものですから。
親鸞会では救われたらこうなる、救われたらこんな心になると、少し前は特に盛んに言っていました。たとえば、「大安心大満足の日本晴れの心」「いつ死が来ても崩れない絶対の幸福」「火にさわったよりあきらか」などです。
信心を、「こんな心になる」と自分の心の変化として言っていたので、その一環として「信後絶対でない心10書け」→「『信後絶対でない心10』が出てきたら、信後ではない」と、信か不信かを判定する基準として出てきたのではないかと思います。
判定する基準と言っても、特に以前の教学短冊は、親鸞会で言うところの「破邪顕正」のために作られたので、彼らがいう「自称獲信者」と論争をする際使おうと思ったのだと想像します。

(2)については、「信後絶対でない心」というものが、そもそも教義にあわないものなので、どこからか苦情がでて取り下げたのだと思います。
親鸞会は、対外的な批判にはすべて法論をしているようなイメージがありますが、明らかに自分たちにとって都合が悪いと思う部分については法論をしません。その代わり、理由の説明もなく教学短冊のようなものでも改訂し、なかったことにします。
ネット上で以前からいわれているのは、会報の廃刊がその一例です。

さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし(歎異抄第13条)

とあるように、縁によってはどんな振る舞いもする人間ですから、「信後絶対でない心」という問題は、問いの出題そのものが間違っています。自力の心がないというならば、1つであって、それ以外に99あるという問いになります。

(3)については、手元にないので、回答ができません。
ただ、「こんな心がでないから信後だ」とか、「こんな心が出てきたら信前」と、特に他人の信心を相手の心で判定する結果になるので、問題にしないほうがよいと思います。
「こんな心が出たから自分はまだ救われていない」と言っている「こんな心」も、少し前に出た心です。問題は、ただ今阿弥陀仏の本願を疑い無く聞いてるかどうかです。仮に1時間前、1秒前どんな心が起きたといっても、大事なことはいつでもただ今本願を聞いているかどうかです。自分にどんな心が起きたか、起きないかではありません。