阿弥陀仏の救い自体を疑っているのではありませんが、自分はそれでもまだ先なのではないかと思ってしまいます。(頂いた質問)
それでもまだ先と思うのは、阿弥陀仏が待っておられる仏さまになっているからです。二河白道の譬えで、西岸上から呼びかけられる阿弥陀仏の招喚の声は「直ちに来たれ」といっておられます。そう聞くと、向こうで待ち構えておられるように思いますが、その声が届くと言うことは、こちらにやってこられると言うことです。声が常に届くということは、常に私に働いて、常に私を逃がさず捕まえられると言うことです。
一 徳大寺の唯蓮坊*1、摂取不捨のことわり*2をしりたきと、雲居寺の阿弥陀に祈誓*3ありければ、夢想に、阿弥陀のいまの人*4の袖をとらへたまふに、にげけれどもしかととらへてはなしたまはず。摂取といふは、にぐるものをとらへておきたまふやうなることと、ここにて思ひつきたり。これを引き言に仰せられ候 ふ。(御一代記聞書205・浄土真宗聖典(註釈版)P1297)
- 現代語訳
- 徳大寺の唯蓮坊が、「摂取不捨」とはどういうことなのか知りたいと思って、雲居寺の阿弥陀仏に祈願しました。
- すると、夢の中に阿弥陀仏が現れて、唯蓮坊の衣の袖をしっかりととらえ、逃げようとしても決してお放しにならなかったのだそうです。
- この夢によって、摂取というのは、逃げるものをとらえて放さないようなことであると気づいたといいます。
- 蓮如上人はこのことをよく例に引いてお話しになりました。
阿弥陀仏の本願力は「にげけれどもしかととらへてはなしたまはず」であり、「摂取といふは、にぐるものをとらへておきたまふやうなること」と言われています。
逃げても逃げてもしっかりととらえて放されない阿弥陀仏がまだ向こうにおられると感じられるならば、その間の距離は自分で計らって作ったものです。
その計らいは捨てて、摂取不捨の願力にただ今救われてください。