19願で勧められている善を実行しなければ救われないというのは間違 - 安心問答(浄土真宗の信心について)の補足です。
善をしなければ信仰は進まないといっては、親鸞会では善を勧めています。
善を勧めないものは、真宗にあらずといって公式ホームページに漫画を掲載するくらいです。
「本当に雑行を捨てよ」とは、善を捨てることなんですか?なら聴聞できない時、どうするんです?」
「ボーッとしていればいいのか?」
「人生の大半は、聴聞できない時だぞ」
(http://www.shinrankai.or.jp/b/tannisyou/hiraku-comic41.htmより)
「善を勧めないのは悪だろ。お前たちは悪を勧めてるんじゃないのか?」
(http://www.shinrankai.or.jp/b/tannisyou/hiraku-comic42.htmより)
このような意見は、現在ただ今救うという阿弥陀仏の本願(いわゆる宗教)と、仏法を求めるものの倫理を混同した間違いです。
「善を勧めている」とか「悪を勧めているのか?」と善悪を問題ににしているのは、よくても救われるための手段であり、親鸞会の主張は本質的には倫理的な問題です。
「真宗の教えを聞いている人はどういう態度であるべきか」という問題については、悪にほこってよいはずはありません。しかし、これは生活態度や、念仏者の倫理的問題です。
そういった倫理的問題は、いわば建前の問題であって、現在ただ今救われるという問題については、善も悪もありません。また、立派な善をできないものはどうすればよいのかという切実な問題になります。善の勧めが八万四千の法門にあっても、実践できない人に対して建てられたのが、南無阿弥陀仏を回向する一つで救うという阿弥陀仏の本願です。