安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

阿弥陀仏に救われるに踏まねばならないステップはありません(メンデルさんのコメント)

メンデルさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

(中略)
罪悪も無常も感じられないとか、真剣になれないとか、あれこれ思う煩わしさから解放されて、楽だと感じたのと、死んだあとのことは自分には分からないので考えても無駄だとわかってすっきりしたということでした。でも、今は、有り難く感じていた念仏を何度唱えても阿弥陀仏に救われる足しにならないと思うと空しく、帰命できない私は阿弥陀仏には救われないのだと悲しく感じます。かたや、白々しく、そんなことにはまったく動じない平気な心もあります。
変な安心感が気になり自分でも少し調べていたら、たまたま藤澤桂珠和上法話集に信罪福心は自力の心だと書いてありました。自分の罪の深さが知らされてその悪果を恐れて阿弥陀仏に救われようと善をする人でなければ自力の心は起きてこないと。ならば、阿弥陀仏が本願をたてられた私の姿をよくよく聴聞させていただいて罪悪観がふかまらないと自力の心も起きてこないと思い、私のする善そのものや感情は阿弥陀様の救いと関係ないけれど、罪悪観は関係あるのではと思いはじめたら、楽な気持ちがなくなってしまいました。自分でもよく分からない心のことですから、やはりもう少し様子をみてから質問するべきでした。(メンデルさんのコメント)

自分の心は関係ないというのは、「自分の心の善し悪しで、信か不信かを論じることはできない」ということです。
もう一つの関係ないとは、メンデルさんがいわれるように「罪悪も無常も感じられないとか、真剣になれない」といった、「自分の心に条件付け」をして「こうなったら信心決定できる」または「近づける」と思うことをいいました。

それ在家止住のやから一生造悪のものも、ただわが身の罪のふかきには目をかけずして、それ弥陀如来の本願と申すはかかるあさましき機を本とすくひまします不思議の願力ぞとふかく信じて、弥陀を一心一向にたのみたてまつりて、他力の信心といふことを一つこころうべし。(御文章3帖目5通・諸仏悲願・浄土真宗聖典(註釈版)P1143

蓮如上人が「わが身の罪のふかきには目をかけずして」と言われています。
これは「聴聞して罪悪観が深まらない」からただ今助からないとか「罪悪が深い私は助からない」と言っている人対して言われたお言葉です。

信罪福心は、自力の心です。ただ、メンデルさんの言われるコメントの言葉を借りますと、「罪悪観がふかまらないと自力の心も起きてこないと思い」というように、「救いの前にいろいろとステップがあるはず」と考えるのも信罪福心です。
もちろん、罪悪観も大事な問題ではありますが、今までそれを気にしておられたメンデルさんにとっては、阿弥陀仏に向かうことの方が大事です。

救われるに踏まねばならないステップはありません。阿弥陀仏の浄土はバリアフリーです。ただ今救う本願です。

最後に質問するのに、「こうなってから」ということはありませんので、思ったことを気軽に仰って下さればいいと思います。

追記

メンデルさんがコメントに書かれた藤澤桂珠和上の本というのは、「藤澤桂珠和上法話集第二集」でしょうか?
p57 「信罪福の信心と他力信心」にあった記述のことかと思いましたので、追加でお尋ねします。

己の罪の深さが知れるとどうなるかいうたら、こりゃあ地獄行きじゃという事になるんです。
地獄行きじゃという事になると、こりゃ何とかせにゃいけんという計らいが起こってくるんです。(藤澤桂珠和上法話集第二集P57より)