安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

信心決定したら、本当の自分の相が知らされるのではないでしょうか?

信心決定したら、本当の自分の相が知らされるのではないでしょうか?例えば、自分は地獄行くしかないような悪人であると知らされると言ったようなことは無いのでしょうか?(頂いた質問)

信心決定したら本当の自分の相が知らされると言う人はあります。確かに、親鸞聖人のお言葉にも、自分自身の姿を懺悔されたお言葉は多々在ります。有名な歎異抄のお言葉に「いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。」もあります。


それらを読みますと、信心決定するということはそのように自分は如何に罪深い存在であると自分の罪悪をまざまざと知らされるように思ってしまいます。しかし、だからと言って、「信心=自分の罪悪が知らされること」と考えるのは間違いです。なぜなら、親鸞聖人は、信心とは阿弥陀仏の本願を聞いて疑い無いことだと言われているからです。

「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。
(一念多念証文)

http://goo.gl/cUGMrz

それ以外のことをもってきて、「信心=私が○○と知らされたことだ」というのは間違いです。もちろん、阿弥陀仏の本願を聞いて疑い無ければ、その上でいろいろと知らされることもあります。しかし、だからと言って「私は自己の罪悪を知らされたから信心決定したんです」と主張すると、自分の心の善し悪しをみて信心かそうでないかを判定しているだけに成ってしまいます。それでは、自分で決めた信心ということになり自力の信心です。


また、罪悪を知らされている人、自分は地獄へ行くしかないような人間だと言う人は、特に信心決定しているいないに関わらず 世の中におられます。


例えば、太平洋戦争中に極限状態で人の肉を食べて、その後も自分のしたことでずっと苦しんでいたと言う人もあります。これは、昨日放送のラジオ番組の内容です。私は、今朝Podcastで聞きました。本日より1週間は、公開されているので時間のある方は聞かれたらいいと思います。
2015年06月11日(木) 「シリーズ戦後70年。飢餓に陥った南方戦線、極限状態の中で兵士たちがとった行動とは?」(証言モード) - 荻上チキ・Session-22



そう聞くと、「それは自力の罪悪感で、機の深信とは違う」と言う人もあります。しかし、機の深信とは、あくまでも阿弥陀仏がみられた私の相です。それは「自力では生死を離れられないもの」と阿弥陀仏が見られていたということを知ることです。私が、私を知るのではありません。もし、私が私を知ったのが「機の深信」というのなら、その私を知った「私」がある以上は自力の信心にしかなりません。


では、なにが知らされたのが信心かと言えば、「本願まことと知らされた」のが信心です。別の言葉で言えば「南無阿弥陀仏がまこと」「ただ今助けるの仰せがまこと」ということです。それを「私が知った」「私が分かった」ということではなく、仰せを聞いて疑い無いだけのことです。それ以外になにか特殊なものが実感できることを指して、信心とは言いません。


ただ今救う仰せを聞いて、ただ今救われてください。