安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

聞法はただ今聞いていること(おしゃまさんのコメント)

おしゃまさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

救われる「道」はない・・・と言われても、何もしなくてもいいわけではありませんよね?
“聞法する”という「道」はありますよね?(おしゃまさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20101201/1291192486#c1292326161

もちろん「『なにもしない』ということをすれば助かる」のではありません。
聞法はとても大事な事ですが、コメントされたエントリーの趣旨からいえば「道」ではありません。聞法の道という「道」があれば、その間を進める人と進めない人が出てくるからです。

時間の流れからいえば、一日一日と日は流れ、今年も残りあとわずかとなりました。仏法を聞き始めてからの時間の経過の視点では、1年間、2年間、10年間とその人その人の道はあります。しかし、それは振り返ってみていうことです。

南無阿弥陀仏は、ただ今私に呼びかけられ、働いておられます。どこか道を進んだところで待っておられるのではありません。「この道を早く進んで来なさい、進んで来れる者は救おう」と誓われた本願でもありません。
「進まねば聞けない」というのは、南無阿弥陀仏を自分とは離れたところに置いている考え方で、自力の計らいです。いつでもどこでもこの私に常に働いて下さる南無阿弥陀仏ですから、ただ今救われます。自分と離れたところにある南無阿弥陀仏ではないと、聞いて下さい。

信心獲得すといふは第十八の願をこころうるなり。この願をこころうるといふは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。このゆゑに、南無と帰命する一念の処に発願回向のこころあるべし。これすなはち弥陀如来の凡夫に回向しましますこころなり。(御文章5帖目5通)

信心獲得といっても、「道」を進んで何かをつかみ取ることではありません。第18願をこころうることです。それは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうることだと言われています。南無阿弥陀仏は、道を進めない私のために阿弥陀仏が自らよりそって働いて下さるお働きですから、ただ今疑いなく聞いて救われて下さい。