凡夫が凡夫ではなく、凡夫が仏になるために聴聞すると言う人に会いました。これはどうなのでしょうか?(頂いた質問)
凡夫が生きている間に仏になるという意味でなら、浄土真宗とは異なる考えです。浄土真宗は、現生正定聚であって、仏になるのは、浄土往生したときのことです。
生きている間は、凡夫は死ぬまで凡夫です。
質問で頂いた内容は、伝聞なので発言者の意図はわかりません。
ただ、凡夫がこの一生を終えたならば仏になるためといわれるのならば、仰るとおりだと思います。
一 蓮如上人仰せられ候ふ。堺の日向屋は三十万貫を持ちたれども、死にたるが仏には成り候ふまじ。大和の了妙は帷一つをも着かね候へども、このたび仏に成るべきよと、仰せられ候ふよしに候ふ。(御一代記聞書72・註釈版聖典P1254)
ここで蓮如上人は、堺の日向屋は死んだ後仏になれないだろう、大和の了妙はこの度死ねば仏になるだろうと言われています。
仏教とは、仏になる教えです。凡夫の生きる道を教えられたものではありません。浄土真宗は、凡夫を浄土に往生させ仏に生まれさせると願われた、阿弥陀仏の本願の教えです。
その本願を聞かせていただくのですから、凡夫がこの度仏になる法を聞くのが聴聞です。もちろん聞いているこの身は死ぬまで凡夫ですから、その法を聞くと言うことはただ有り難いことです。