安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「どのようにすれば妙好人になれるでしょうか。」(ぱるるさんのコメントより)

ぱるるさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

ぱるる 2013/08/22 01:01
質問です。
真宗では救われるということは浄土往生のことですよね。けれど世間で救われるという言葉は悩みがなくなったり、希望がわくことだと思います。そのように言葉がごっちゃになっているので、すこし混乱している自分がいます。
私は確かに浄土往生させていただきます。そのような真宗的な意味では救われています。けれど、真宗を知らない人が私を見ても悩みだらけの人にしか見えないと思います。だから世間的な言葉で言えば私は救われていない人間です。ここまでは理解できます。
けれど、一方で南無阿弥陀仏は煩悩の氷を溶かすともいいますよね。妙好人のようなピュアな方達が真宗の歴史では沢山おられます。
妙好人の方達はもちろん悟ってはいないですが、私とは何かが格別に違っているように思います。もちろん妙好人の方達も悩みが沢山あることは知っています。けれど表面的には波風が立っていても奥では穏やかな雰囲気を感じます。私はその穏やかさだったりピュアな信を手にいれたいです。つまり妙好人の境地になりたいのです。そうすれば世間でいわれるところの救いも、結果としてに手に入ります(あるいは興味を無くすかもしれませんが)。
どのようにすれば妙好人になれるでしょうか。あるいはこの問いには誤りがあるでしょうか。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130821/1377075668#c1377100879

今日でも名前が残っている妙好人のことばには、とても味わい深いものもあり、ぱるるさんが「そのようになりたい」と思われる気持ちもわかります。しかし、過去の「妙好人と言われ人」を指して、その人たちだけを特別に模範的念仏者と思うのは間違いです。元々善導大師が、念仏者を妙好人と言われたからには、本願を信じ念仏する人はみな妙好人だからです。また、それら妙好人と言われる人が「妙好人になろう」と思って努力したことはありません。さらに言えば、それら妙好人が「ピュア」であるというのも幻想です。少なくとも本人の自覚として「私はピュアだ」と言われた妙好人を私は知りません。



現在でも有名な、浅原才市さんにしろ、因幡の源左さんにしろ、阿弥陀仏に救われたその時から今でも残る有り難いことを言ったり書かれたりしたものではないと思います。浄土真宗では「修行」といわれるものはありませんが、念仏者としての生活は阿弥陀仏に救われてからがスタートです。これも一つの「修行」です。その念仏者としての「修行」の結果、前述の妙好人たちの有り難い言葉が今日まで残っています。とはいえ、浄土真宗で言う「修行」とは戒律を守ったり出家することではありません。法然聖人は「浄土門の修行」について以下のようにいわれています。

まさにしるへし聖道の修行は。智惠をきはめて生死をはなれ。淨土門の修行は。愚癡にかへりて極樂にむまると(浄土宗全書第9巻P604_和語灯録 了恵輯緑)より宗祖法然上人800年大遠忌記念 浄土宗全書(JODOSYU ZENSYO) 検索システムで「浄土門の修行」で検索)


聖道門の修行は、戒律を守りいろいろな行をすることによって自らの智慧を磨き生死を離れることです。それに対して、浄土門の修行は「愚痴にかえりて極楽に生まれる」ことだといわれています。この「愚痴にかえりて」といわれたのは、「馬鹿を装え」とか「勉強するな」ということではありません。出家をしない在家の人間としての人生を生きていくことです。いろいろな煩悩をかかえたまま、弱い部分を抱えたまま、さまざまな苦しみを抱えたまま生きていくということです。


そのような生活のまま念仏を称え、また法を聞かせていただくことによって、あらためて阿弥陀仏の本願を喜ぶ心はだんだんと育ってくるものです。これは、自分自身でも思うことですし、また多くの和上方や年配の念仏者の方をみて思うことです。救われてからの年月がたつほどに、阿弥陀仏の本願についての味わいも変わってきます。


一般的なことでも「あの人はなんて立派な人なのだろう」という年配の方にお会いすることがあります。ただ、実際に話を聞いてみるとそれまでの人生大変ご苦労をされていたということもよくあります。同じように、ぱるるさんが「有名な妙好人」を見て「あの人のようになりたい」と思われたとしても、その当事者の法に対する態度や今日まで残っている言葉がでるまでには大変な苦労があったと思います。おそらく、ぱるるさんが今思われているような悩みも抱えたことがあると思います。それでも、凡夫としての生を全うしていく念仏生活の中で阿弥陀仏の本願をより喜ばれるようになったのだと思います。


最後に、私個人の味わいとして書きます。確かに、阿弥陀仏に救われたからといって、ぱるるさんがいわれるような「有名な妙好人のようなピュアな人」になるわけではありません。私も以前は、阿弥陀仏に救われたならば「煩悩具足の凡夫」といえどもそのような人になれるのではないかと思っていました。しかし、それは全くの希望的観測であり、間違いでした。



現在の私は、実家の店の仕事を手伝う時にはいろいろな計算をしたり、人間関係でいろいろと悩んだり、段々と年老いていく両親の心配をしたり、認知症の祖母についていろいろと悩んだりしています。また、NHKテレビ小説の「あまちゃん」を録画して毎日楽しみにみていたり、原発関連のニュースを見ては心配しています。そうかと思えば、このようなブログを書いていたり、お聖教を読んで喜んだり、法話を聴聞して念仏を称えたりしながら日々を送っています。私個人としては、そのような生活を送りながら、大変有り難いと思っています。しかし、その「有り難い」という気持ちは、時間が経つほどに大きくなっていくように感じています。ただ、私は、ぱるるさんがいわれるような「有名な妙好人のようなピュアな人」ではありません。しかし、もし命が延びれば今以上に阿弥陀仏の本願を喜べるようになるのだろうと感じています。それは「浄土門の修行」の結果と思います。


過去の妙好人の方々は、それこそ何年、何十年と念仏生活をされた上で語られたことを、現在の私がそう思えないとしても別に悲観する必要はありません。ただ、過去の妙好人の生き方をもって「そのようにならねばならない」と思うのは誤りです。ぱるるさんは「あの人は有り難い人だ」と言われたいのでしょうか?仮に言われたとしても、往生浄土にはなにも関係ありません。あなたが口にされる南無阿弥陀仏が、周りの人を教化していくのです。


御一代記聞書に蓮如上人の言葉として、以下のように書かれています。

一 聖教よみの、仏法を申したてたることはなく候ふ。尼入道のたぐひのたふとやありがたやと申され候ふをききては、人が信をとると、前々住上人(蓮如)仰せられ候ふよしに候ふ。なにもしらねども、仏の加備力のゆゑに尼入道などのよろこばるるをききては、人も信をとるなり。聖教をよめども、名聞がさきにたちて心には法なきゆゑに、人の信用なきなり。(御一代記聞書_浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P1261)
(現代語版)
人前で聖教を読み聞かせるものが、仏法の真意を説きひろめたというためしはない。
文字も知らない尼や入道などが、尊いことだ、ありがたいことだと、み教えを喜ぶのを聞いて、人々は信心を得るのである」と、蓮如上人は仰せになったということです。

聖教について何一つ知らなくても、仏がお力を加えてくださるから、尼や入道などが喜ぶのを聞いて,人々は信心を得るのです。
聖教を読み聞かせることができても、名声を求めることばかりが先に立って、心がご法義をいただいていないから、人から信用されないのです。

http://goo.gl/9h9QPC

ぱるるさんが「理想的な念仏者」ではなかったとしても、「尊いことだ有り難いことだ」と喜ぶのを聞いて、聞いた人が信を獲るといわれています。


ぱるるさんがそのように思われるのは、名聞利養なのか、衆生済度の心なのかはわかりませんが、私は後者の方がきっかけではないかと有り難く読ませていただきました。