安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

高森会長の説明責任について考える

先日、ある本を読み思うところがあったので、エントリーを書きます。
読んだ本は、「加害者は変われるか?―DVと虐待をみつめながら」という本。

加害者は変われるか?―DVと虐待をみつめながら

加害者は変われるか?―DVと虐待をみつめながら

以下は、本の中にあった文章です。
文章はいわゆる無差別殺人や理由の不明な殺人事件で家族を失った被害者の家族が、加害者に知りたいことと、加害者が説明しなければならないことについて筆者の意見が書かれた部分です。

加害者は、被害者と残された家族に対して「なぜ、ほかでもないあなたに」について説明しなければならない。「申し訳ありません」と謝罪しても、その部分は埋まらない。
「加害行為の理由は○○です」「○○だからあなたの子どもを対象に選んだのです」と加害者が述べることが、問いかけに対する答えなのだ。
(中略)それが「説明責任」なのではないかと私は考える。
加害者は変われるか?―DVと虐待をみつめながら」 P192より)

いろいろなブログなどでも指摘されているように、親鸞会で教えていることは、「浄土真宗」とは異なります。仮に、指摘をして、高森会長が「私は間違っていました」と謝罪をしたとしても、それでも心は晴れないだろうと思うところがありました。
なぜだろうと考えていましたが、それについての、1つの答えが上記の文章にあると思い至りました。

私個人として、高森会長から聞きたい言葉は「私は間違っていた」という謝罪ではなく、「なぜ違うことを言うようになったのか」という理由だったのです。
無差別殺人事件のの被害者やその家族が、「なぜ、ほかでもないあなた」を傷つけたのかが知りたいように、私は「なぜ他でもない浄土真宗の教え」を曲げたのかが知りたいのです。

本気で今、親鸞会の会員に話をしていることが正しいと思っているのならば、なぜそれを正しいと思うようになったのだろうか?

間違いと自覚しながら話をしているのならば、その動機は何なのか?何のため今のような話をするようになったのか?

高森会長が、私が聞きたいことに答えることは、おそらく永久に聞けないと思います。親鸞会に元いた人間として、あえて書きますが、「なぜ今のようなことを言うようになったのか」という「説明責任」を果たさない限り、親鸞会への批判はなくなりません。

私個人としては、どうして親鸞会を離れた後も、親鸞会のことを考えてしまうのだろうかという理由が分かったという点で、気づきがあったのは有り難いことと思います。