安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「輪廻の主体は何ですか?」「現生で救われたら浄土に転生する主体は何でしょうか。」(Peing-質問箱-に頂いた質問)

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Peing-質問箱-より

輪廻の主体は何ですか? | Peing -質問箱-

これについて質問箱には以下のように書きました。

主体となるような「私(我)」というものは、本来無いというのが仏教の立場です。その上で、「私(我)があるという迷いが続いている状態」が輪廻している状態です。

それに対して、続けて質問を頂きました。

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Peing-質問箱-より

3/16の質問の続きをさせていただきますが、では現生で救われたら浄土に転生する主体は何でしょうか。 | Peing -質問箱-
これについて質問箱に以下のように書きました。

前回の続きで回答しますと、南無阿弥陀仏が浄土に往生して南無阿弥陀仏となります。
補足が必要だと思いますので、続きはブログに書きます。

以下、続けて書きます。

輪廻する主体は何なのか、浄土に往生する主体とは何なのかと言う質問を頂きました。

「私」という主体はあるのか?無いのか?

仏教は基本的に私と言う統一的な主体、いわゆる固定して変わらない霊魂のようなものは存在しないと教えられます。
これを、因縁生とか無自性・空といいます。
因縁生というのは、すべてのものは因と縁によって仮に生じているというものです。そのため、固有の実体というものを持たないので、それを無自性といいます。または「空」といわれます。人空とは、私の中に実体がないことをいい、法空とはあらゆる存在には実体がないことをいいます。


しかし固定した魂のようなものはないとして、「私」と今まさに考えている「私」と言うものは一体何なのかとに考えてしまいます。また別の意味で言うと、一切が因縁生であり無自性・空ならば何も存在しないのではないかと考えてしまうこともあるかと思います。

すべてが空なら迷いも悟りもない?

すべてが空と聞くと、何もないように思ってしまいます。そうなると、輪廻するということも空であり悟りもまた空なのだから、結局何もないということなのだろうか?と考えます。あるいは地獄へ落ちるといっても私と言う実体が無いのだから恐れる必要もないのではないかと考えてしまいます。

このような考え方を「空見」といい、そこに執着するのは間違いであるといわれます。また、私たちが普段ものを見るように、固定した実体があるとようにしか見えない見方(「我見」)も間違いです。ただ、間違いだと言われても実際はどうなのかと言われると分からないのが私たちの実感です。

「『すべては空』と執着するのはダメ、絶対。」(道綽禅師)

我見にとらわれがちな私ですが、空見は絶対によろしくないと道綽禅師はこのように書かれています。

このゆゑに『無上依経』(意)にのたまはく、「仏、阿難に告げたまはく、〈一切の衆生もし我見を起すこと須弥山のごとくならんも、われ懼れざるところなり。 なにをもつてのゆゑに。 この人はいまだすなはち出離を得ずといへども、つねに因果を壊せず、果報を失はざるがゆゑなり。 もし空見を起すこと芥子のごとくなるも、われすなはち許さず。 なにをもつてのゆゑに。 この見は因果を破り喪ひて多く悪道に堕す。 未来の生処かならずわが化に背く〉」と。 いま行者に勧む。 理、無生なりといへども、しかも二諦の道理縁求なきにあらざれば、一切往生を得。(安楽集 (七祖) - WikiArc・浄土真宗聖典七祖篇(註釈版)P208)

おおまかな意味を書きます。
お釈迦さまは、「すべての人が我見を起こす事が須弥山のようにあっても私はそれを恐れない。それは因果の道理を壊していないからである。しかし、もし空見に執着することはたとえ芥子のように少しでもあれば、私はそれを許す事はできない。なぜなら、因果の道理を破壊して、迷いを離れず、悟りに向かうことがないからである」と言われました。だから、真理は無生(空)であっても、私たちが分かるような因縁生の立場で往生浄土を願い求める心があればこそ、往生することができるのだ。


「空」というのは、仏教を学ぶと出てくる言葉ですが、「理屈は分かるけど」と言っているうちはまだいいのですが、先に書いたような「全部空だから何もない」という空見はそもそも空の定義を勘違いした間違った考え方です。ただ、えてしてそうなりやすいのですが、そうなると迷いを離れようとか悟りを求めようという心も失ってしまうので大変恐ろしい間違いです。

空について、波とロウソクの火の話

そこで空と言う事についてもう少し具体的に話します。
空の話で、実体というものはあるのでもないのでもない、あると執着するのも間違いで、無いと執着するのも間違いといわれます。
しかし、理屈は分かるけど、生活の実感として私はいる、物はあるようにしか見えません。

そこで固定した実体は無いのだが実体があるように見えるものとして、よく例えで使われているのが海水と波の関係です。
海にある波は刻一刻と変化します。風の影響などですべての波は形が異なり固定した実体というものはありません。波そのものは、固定した形のない海水でできています。それが因縁によって仮にその時の形を表しているにすぎません。波はありますが、目の前にある波が、波の「実体」ではありません。

同じような話として、ロウソクの火があげられます。
ロウソクに火をともすと火はゆらめきますがその火と言う固定した実体はそこにはありません。刻一刻と変わる燃焼状態が私たちの目に火と言う形で写っているに過ぎません。
しかもそのロウソクに火が灯っている状態と言うのは、いろいろな因縁がより集まらなければ生まれない状態です。
そのことは「ロウソクの科学」に詳しく書いてあります。2019年ノーベル科学賞を受賞した旭化成・名誉フェローの吉野彰さんが小学4年生の時に読んで科学の道に入るきっかけとなった本として紹介されました。
もう少し詳しい内容については要約サイトを参照ください。
www.flierinc.com

理と情について

理屈として、ロウソクの火という固定した実体はないのですが、火は実際目の前にあり明るさもあれば、熱もあります。
すべてのものは空であるとか、実体はないというのは確かにそうなのですが、「死ぬのが怖い」とか「死んだらどうなる」という私たちの感情というものがあります。


この「情」というのがとても大事なのだと、道綽禅師は言われます。

しかれば大聖(釈尊)弘慈をもつて勧めて極楽に帰せしむ。 もしここにおいて進趣せんと欲せば、勝果階ひがたし。 ただ浄土の一門のみありて、情をもつて悕ひて趣入すべし。(安楽集 (七祖) - WikiArc・浄土真宗聖典七祖篇(註釈版)P184)

お釈迦さまが、極楽往生を勧められても、自ら修行によってそこに往生しようとすればそれはとても叶わないことである。だから浄土の教えがあるのだし、私の「情」をもって浄土をねがい入っていきなさい。

理を知ることと、輪廻や浄土往生の関係

お尋ねの趣旨からいうと、仏教の「因縁生」「無自性」「空」の話を聞き、では一体輪廻とは何なのだろうか、浄土往生とは何が浄土に往生するのだろうかという疑問を起こされたのではないかと思います。
ただ、すべては空だと分かるのは、それこそ悟りを開いた智慧の世界なので本当の意味では私には分かる事はできません。

しかし、その上で「このままでは死ねない」とか「死ぬのが怖い」とか「真実を知りたい」というのはとても大事な「情」です。また「直感」ともいいます。そのように私を浄土に向かわせようと差し向けられるのが阿弥陀仏の本願力であり、お釈迦さまを始めとした様々な方のお勧めです。

理を学ぶ事と、情で動かされる事はどちらが上とか下というものではありません。ただ、理を学んでいる人も最初の一歩はやはり「情」や「自分はこのままではよくない」という「直感」からです。それに従って、教えを聞き、教えの通りに輪廻を離れて浄土往生を遂げて仏になって頂きたいと思います。

何が往生するのか問題

長くなりましたが、質問についての回答の補足がここからになります。
「南無阿弥陀仏が浄土に往生して南無阿弥陀仏になる」と書きましたが、それについては、御一代記聞書に以下のように書かれています。

(77)
一 法敬坊、蓮如上人へ申され候ふ。あそばされ候ふ御名号焼けまうし候ふが、六体の仏になりまうし候ふ。不思議なることと申され候へば、前々住上人(蓮如)そのとき仰せられ候ふ。それは不思議にてもなきなり。仏の仏に御成り候ふは不思議にてもなく候ふ。悪凡夫の弥陀をたのむ一念にて仏に成るこそ不思議よと仰せられ候ふなり。(蓮如上人御一代記聞書 - WikiArc・浄土真宗聖典註釈版P1256)

法敬坊が、蓮如上人に「蓮如上人が書いて下さった六字名号が、火事で焼けた際、六体の仏になって空に上っていきました。不思議なこともあるものです。」と言いました。それに対して蓮如上人は「仏が仏になるのだから不思議なことではない。悪凡夫が阿弥陀仏にうちまかせた信心によって仏になることそこ不思議である」と言われました。

南無阿弥陀仏の六字名号が、六体の仏になることは不思議なことではないと言われます。しかし、悪凡夫である私が浄土往生して仏になるということは不思議なことです。南無阿弥陀仏と私に呼びかけられる仰せを聞くことは、われをたのめただ今助けるとの仰せに従うことです。救うとか救われるという主体は、そこで南無阿弥陀仏と一つになります。

それについて理を言えば「煩悩菩提体不二」と言われて、私の煩悩と仏のさとりは二つであって二つではないものです。ですが、実際の「情」からいえば「阿弥陀仏の仰せにしたがった」とか「阿弥陀仏の仰せにまかせた」ということになります。

阿弥陀仏に救われると言う事は、私の中での中心が南無阿弥陀仏になると言うことです。中心になるといっても何か乗っ取られるようなものとはまた違います。違いますが何も変わらないと言う事とはまた違います。何も分からないまま生死を重ねてきた私が浄土に往生し仏となっていくというように大きく変えていただくことです。

「理」として何が往生するのかは、分からなくても南無阿弥陀仏は私を救ってくださいます。ただ今助ける南無阿弥陀仏にただ今救われて下さい。

続いての質問

anjinmondou.hatenablog.jp