ある人から「聴聞の目的は凡夫になることだ」と聞いたのですが、私にはどういう意味かよく分かりませんでした。
聴聞というのは、何か目的があってするものなのでしょうか?(頂いた質問)
発言された方がどういう意図で言われたかはわかりません。
想像してみますと、「聖者になるのではない、凡夫のまま救われる」ということが言いたかったのかも知れません。
また、御消息の「愚者になりて往生す」のことをいわれているのかもしれません。
故法然聖人は、「浄土宗の人は愚者になりて往生す」と候ひしことを、たしかにうけたまはり候ひしうへに、ものもおぼえぬあさましきひとびとのまゐりたるを御覧じては、「往生必定すべし」とて、笑ませたまひしをみまゐらせ候ひき。文沙汰して、さかさかしきひとのまゐりたるをば、「往生はいかがあらんずらん」と、たしかにうけたまはりき。(御消息第16通・註釈版聖典P770)
(現代語訳)
故法然上人は、「浄土の教えに帰依するものは、愚かものになって往生するのである」とおおせになったのを、確かにお聞きしました上に、ものの道理をわきまえないあさましい人が、教えを聞くのをご覧になって、「必ず往生するであろう」と、ほほえまれたのを見たことでした。また学問をしていかにも賢者らしくよそおうものが訪ねて来たのを、「往生はどうであろうか」と、おおせになったのを、確かに見聞しました。
阿弥陀仏の本願は、凡夫めあてに建てられました。ですから、仏法を聞いて今より優れた人間になったら救われるということはありません。聞いて学問をして賢者になったら救われるというものではありません。
いろいろと本願を計らう人を賢い人とするなら、そんな賢い人ではなく、愚者(凡夫)になって本願を聞くのが大事です。
そういう意味で、「聴聞の目的は凡夫になる」と言われたのかもしれません。
しかし、「仏法を聞いて○○な人になる」という言い方は、聴聞がなにかの手段となっている言い方です。聴聞は、何かの目的を果たすための手段ではありません。
聴聞は、本願成就文の「聞其名号」のことであって、南無阿弥陀仏を聞くことをいいます。
阿弥陀仏の必ず救うの仰せを疑いなく聞くのが聴聞です。私の方で手段としてなにかをすることではありません。仰せをそのまま聞いているが聴聞です。
一方、広い意味での「聴聞」といえば、寺や法座に足を運んで仏法の話を聞くことです。その場合は「○○のために聴聞する(法座に足を運ぶ)」という言い方は実際につかわれています。
こういう場合は、「仏法の話をきくために」聴聞に行くというような言い方になるかとおもいます。
常に救いの法を聞かせていただき、法を仰いで喜ばせて頂くご縁になりますので、聴聞はとても大事なことです。
どこから来てどこへ行くのかもわからないのが凡夫ですから、常に阿弥陀仏の仰せを聞かせていただくのが大切なことです。