安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

{問答]光明と名号について(ひかりさんのコメント)

ひかりさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。
前回のエントリーで問われたことに対して答えにならないことを書いておりました。申し訳ございませんでした。

光明に分類があるという件については、当事者として区別ができるものではありません。また、阿弥陀仏が信前の人に調熟の光明を放ち、信後の人にだけ摂護の光明を放たれているという区別をされているのでもありません。(光明は分類できるのでしょうか?(のぞみさんのコメント) - 安心問答(浄土真宗の信心について)

これはどういう意味ですか。「当事者として区別できない」のなら、「人間の側」で区別をするのはナンセンスなのではないですかとのぞみさんが言われているのと同じことを言われているように思うのですが。

南無阿弥陀仏は全部同じだから「調熟の光明」とか「摂護の光明」と分けるのは「当事者としては区別できない」のなら、言ってはならない、言うのも無意味ということですか??(ひかりさんのコメント1)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20101027/1288125686#c1288171186

言ってはならない、言うのも無意味ということではありませんでした。申し訳ございませんでした。問いに対して十分な回答になっておりませんでした。

南無阿弥陀仏といえば全て同じとなりますが、光明を「調熟の光明」とか「摂護の光明」と分けることに意味がないのではありません。一人一人にいろいろな形で働いて下さっている阿弥陀仏のお働きを教えて下さったのが光明についてのいろいろな説明ですから、とても大事なことです。
光明のお働きによっていろいろな言い方がありますが、現在救われた人にだけ特別な光明が働いているのでもありませんし、私の側から光明が目に見えて強いとか弱いとか判定できるものではありませんという意味で書こうと思いました。ただ、ご指摘いただき私の文章は、光明を区別するのはナンセンスといっている文章になりますので質問に対して適切に答えたことになっていませんでした。申し訳ございませんでした。

それならどうしてこのように分けて言われているのですか。信前信後の時間の区別によってではないなら何でしょう。本来どういう意味で何を伝えるがために言われたことなのですか?と思います。それ以前に、光明と名号は同じなのですか。基本的なことで申し訳ありませんが。(ひかりさんのコメント2)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20101027/1288125686#c1288171186

光明は、仏の智慧を象徴するものです。

しかれば阿弥陀仏は光明なり、光明は智慧のかたちなりとしるべし。(唯信鈔文意・註釈版聖典P710

阿弥陀仏の智慧のかたち(智慧の徳)を光明といわれています。
調熟の光明といった場合は、未熟な者を調育して仏法を聞くように導いて下さる阿弥陀仏のお働きをいいます。
摂護の光明といった場合は、本願を疑いなく聞いて念仏する者を阿弥陀仏がおさめ護って下さるお働きをいいます。

「摂」はをさめとるといふ、「護」はところをへだてず、ときをわかず、ひとをきらはず、信心ある人をばひまなくまもりたまふとなり。(一念多念証文・註釈版聖典P683

「調熟の光明」「摂護の光明」と言ったときは、信前信後でいわれたことです。
信前の人でいえば、私をなんとか往生定まる身に救おうと働かれ、信後の人で言えば、いつでもどこでも、どんな人でも護って下さるというお働きです。

名号は、阿弥陀仏の本願のはたらきが具体的なことばにあらわれたものです。目にも見えず、言葉にもできない阿弥陀仏の智慧と慈悲が、南無阿弥陀仏となってあらわれてくださったものです。
言葉であらわせば「光明」「名号」と分けて話をしますが、南無阿弥陀仏は阿弥陀仏の本願のお働きそのものですから、阿弥陀仏の私を助けようとされるお働きという意味で、光明と名号は同じものです。
大無量寿経には、光明について十二光*1として教えられますが、これは名号のお徳やお働きをあらわすもとして教えられています。*2