安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「人生の目的」=信心決定 ですか?(頂いた質問)

親鸞会では、よく縦の線と横の線をひき、左端に「人生の目的」=18願=信心決定=無碍の一道 と書いて、ここを進んでいって、この世界にでるのだと説明されます。
あの、横の線を進んでいくという表現自体は、親鸞聖人の教えに照らし合わせて、正しいのでしょうか?
また、「真剣に信心決定を求める」ことは良いことなのでしょうか?悪いことなのでしょうか?(頂いた質問)

横の線を進んでいくという表現自体は間違いです。
親鸞聖人の教えは、阿弥陀仏の本願力回向によって救われる教えであって、自らが「進んで(実行して)」救われる教えではないからです。

「人生の目的を求める」こと自体は、人によっては意味のあることかもしれませんが、「人生の目的」と「信心決定」をイコールで結んで「真剣に信心決定を求める」ことは、悪いことです。
理由は、信心決定は求めるものではないからです。阿弥陀仏の本願力回向によって、差し向けられるものだからです。

つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について真実の教行信証あり。(教行信証・教巻・註釈版聖典P135

浄土真宗は、阿弥陀仏の本願の宗教です。阿弥陀仏の本願には、二種の回向があります。1つには往相回向、2つには還相廻向です。往相回向について、真実の教、行、信、証があります。
ここで、真実の信は阿弥陀仏から回向されるものだといわれています。

阿弥陀仏が本願に願われているのは、差し向けようということで、求めなさいではありません。阿弥陀仏の本願に相違するので悪いことです。
別の言葉で言うと、私に向かって呼びかけておられるのであって、ここまで来て聞きなさいではありません。

人生の目的=信心決定 ではありません

質問にある内容で、一番問題なのは、先にも書きましたが、「人生の目的=信心決定」というところです。
親鸞会にいる方には常識ともいえるこの「人生の目的=信心決定(または絶対の幸福)」は、イコールになりません。

理由として2つあります。

  1. 無碍の一道に出させたい、信心決定の身に救ってやりたいと願われるのは阿弥陀仏であって、私の目的(願望)ではありません。
  2. 「目的」というからには、その内容が明確に分かっていなければ目的になりません。信心決定、無碍の一道はどんなものかというのは、仏でない凡夫には分からないものです。

人間の願いでもなく、人間に分からないものは「人生の目的」にはなりません。
よって、親鸞会で言うような人生の目的はありません。

自分の幸せは、こういうものしかないという形に固執するのは、別の面から見ると非常にその人を不幸にしていきます。「倒れた法友の屍を乗り越えて」も、求めて行くというのは、とても独りよがりの幸せであり、その人の思い描く幸せに依存し、最優先にしているのであって、阿弥陀仏の本願とは反対です。

阿弥陀仏の願いは「若不生者不取正覚」とあるように、もし私を浄土に往生させなければ、正覚を取らないというものです。
これは、「阿弥陀仏が正覚を取る目的のために、衆生を往生させなければならない」という意味ではありません。
幸せという言葉を敢えて使うなら、「衆生を幸せにできないならば、私(阿弥陀仏)は幸せにならない」と誓われています。常に、衆生を助ける為に呼びかけ続けられているのが、阿弥陀仏の願いです。その願いをそのまま聞いたのが、信心決定です。

生きる意味も、死ぬ意味も分からない凡夫に向かって、直ちに来たれと呼びかけられているのが阿弥陀仏です。人生の目的を与えるのが阿弥陀仏の本願ではありません。