安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「疑ったままでも助くる本願なきや」について(おさびしやまさんのコメント)

おさびしやまさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。Rudelさんからもコメントを頂きました。有り難うございました。

「阿弥陀仏の本願についてはどのように思われていますか?」のご質問ですが、阿弥陀仏の本願が本当に存在するのなら有難いことだと思っています。クリスチャンの国木田独歩が、臨終に「祈らずとても、助くる神なきや」と悲泣して死んだと何かの本に書いてありましたが、「疑ったままでも助くる本願なきや」の心境です。(おさびしやまさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20101009/1286574070#c1286637060

「祈らずとても〜」は、自ら祈り、救いを請求しなくても助けてくれないものだろうかという意味だと思います。
「疑ったままでも〜」は、自ら祈り、請求したら、それに応じて助けてくれる本願という意味になってしまいます。

本願を疑うとは、他力回向の本願を疑うということです。阿弥陀仏の方から差し向けて下さる本願を疑うとは、全て阿弥陀仏のお働きではなく、何かを足さなければならないのではないかと思う心です。そのため、往生のために何かを付け足したり、条件に加えようという心です。

まづ自力と申すことは、行者のおのおのの縁にしたがひて余の仏号を称念し、余の善根を修行してわが身をたのみ、わがはからひのこころをもつて身・口・意のみだれごころをつくろひ、めでたうしなして浄土へ往生せんとおもふを自力と申すなり。(御消息6通・註釈版聖典P746

その人なりの縁にしたがって、心口意の三業を整えたり立派にして浄土に往生しようと思う心を自力と言います。

疑ったままでもというのは、三業を整えているようにはちょっと思えないかもしれません。しかし、「疑う者と見抜いて建てられた本願だろう」、「疑ったままでもなんとかしてくれないだろうか」とあれこれ計らっているのは、本願になんとか自分を合わせようと三業を整えていることと同じです。

「疑ったままでも」という条件は、自分で作り上げているものです。そういう計らいは、自力といわれて捨てるべきものです。そのまま救うという本願は、私の計らいは要らないと言うことです。