安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

なぜ今助かると断言できるのか?(maryさんのコメント)

maryさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

阿弥陀仏は後生を助けて下さると理解しています。
そうなると実際後生どうなるかは、実際死んでみないとわからないので、臨終にならないと本当に助かるかどうかはわからないと思うのですが、なぜ「今助かる」と断言できるのですか?未来の事なのに、どうして今安心できるのですか?(maryさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091127/1259273610#c1259499431

回答します。
「後生助ける」という本願は、臨終に初めて回向してくだされるものではなく、現在ただ今回向して下されるものだからです。
阿弥陀仏にただ今救い摂られますと、摂取の光明の中にあります。おさめ取って捨てられないから、現在から、いつ死ぬことがあっても往生浄土させていただくと安心があるのです。

「我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我」といふは、真実信心をえたるひとは、身は娑婆にあれどもかの摂取の光明のなかにあり。しかれども、煩悩まなこをさへてをがみたてまつらずといへども、弥陀如来はものうきことなくして、つねにわが身を照らしましますといへるこころなり。(正信偈大意

正信偈にある「我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我」についての解説ですが、尊号真像銘文にもありますが、今回は正信偈大意から引用しました。
阿弥陀仏に救われると、この肉体は娑婆の中にありますが、阿弥陀仏の摂取の光明の中にあります。しかし、その「摂取の光明」自体が、光線のように見えるのではありません。この身が娑婆にある間は、煩悩具足しているので見ることができませんが、阿弥陀如来はその煩悩に妨げられることなく私を照らし続けて下さるのです。照らし続けるというのは、光明ですが、別の言葉で言えば、回向し続けておられるということです。

そのため、歎異抄9章に出てきますが、極楽に往きたいという心が無くても、娑婆の縁が尽きれば往生させていただくのです。

なごりをしくおもへども、娑婆の縁尽きて、ちからなくしてをはるときに、かの土へはまゐるべきなり。いそぎまゐりたきこころなきものを、ことにあはれみたまふなり。これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じ候へ。(歎異抄9章

名残惜しく思うけれども、この世との縁が尽きたならば、阿弥陀仏の浄土へ参ればよいのです。急いで浄土へ参りたい心のないものを、ことに哀れに思われる阿弥陀仏ですから、いよいよ大慈悲の本願はたのもしく、往生は決定と思いますとある通りです。

確かに、往生浄土させていただくのは、娑婆の縁つきた時ですが、大悲大願がたのもしいからこそ、往生は間違いないのであります。