安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

見ることができないから聞いて下さいという本願です(おさびしやまさんのコメント)

おさびしやまさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

今まで自分の心を見るのではないとよく言われてきましたが、そこが分かりません。自分で自分の心以外のものを見る事ができるのでしょうか。(おさびしやまさんのコメント)

「見る」といっても、何かが見えるわけではありません。
自分の心を見るのではないというのは、自分の心の有り様で助かるかどうかを決めてはならないということです。阿弥陀仏の本願力で助かるのであり、南無阿弥陀仏のお働きで助かるのです。

また、自分で阿弥陀仏(自分の心以外のもの)を見るのではなく、阿弥陀仏が呼びかけておられるお働きを聞くと言うことです。
見よう見ようとして、見ることができるのならば私に仏様のお姿を見る力があると言うことになります。しかし、仏を見る力もさとりもない私には、どれだけ目をこらして、心を集中させても阿弥陀仏のお姿を見ることはできません。
そこで、阿弥陀仏は私に向かって直ちに来たれと呼びかけて下さっています。その呼びかけは、阿弥陀仏が声となられたお姿であり、南無阿弥陀仏となって働いて下さっています。

願力成就の報土には 自力の心行いたらねば
 大小聖人みなながら 如来の弘誓に乗ずなり(高僧和讃72)

私が阿弥陀仏の浄土に往生させていただけるのは、阿弥陀仏の願力で、南無阿弥陀仏によってです。阿弥陀仏の願力で成就した浄土には、自力の心行いたらねばといわれるように、どんな修行をしてる人でも、自らの力で行くことはできません。
そのため「大小聖人みなながら 如来の弘誓に乗ずなり」といわれています。阿弥陀仏の本願に乗じてとは、南無阿弥陀仏と働いて下さる阿弥陀仏の仰せを聞くことです。

自分の心を見ないとは、自分の心を見るとか見ないとか、心がどうなったからで参れる浄土ではないからです。阿弥陀仏の本願力でしか参れない浄土には、そのまま来いといわれる仰せを聞くよりほかにはありません。