安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

待つしかないと思うは、別の阿弥陀仏を想像するから(頂いた質問)

いろいろと話を聞いていると、阿弥陀仏に救われるには自分ではもうどうしようもないのではないかと思います。もう待っているしかないのでしょうか?(頂いた質問)

どこか遠くにいる阿弥陀仏が、遠くからやってくるというのならば待つしかないという話になりますが、阿弥陀仏はそばに常におられます。
ウルトラマンのような仏でもなければ、形をもたれた仏様でもありません。
阿弥陀如来のことを、尽十方無碍光如来ともいわれます。その尽十方無碍光如来について、親鸞聖人はこのように解説されています。

「尽十方無碍光如来」と申すはすなはち阿弥陀如来なり、この如来は光明なり。「尽十方」といふは、「尽」はつくすといふ、ことごとくといふ、十方世界を尽してことごとくみちたまへるなり。「無碍」といふはさはることなしとなり、さはることなしと申すは、衆生の煩悩悪業にさへられざるなり。(尊号真像銘文・註釈版聖典P651

阿弥陀如来(尽十方無碍光如来)は、光明であるといわれています。お働きそのものであるということです。十方世界にあますところなくみちみちておられるというのが、「尽十方」ということです。
衆生の煩悩悪業に妨げられることなく救って下さるから「無碍」といわれてます。
十方世界どこにでも、どんな煩悩悪業を持った者でもさわりなく救って下さるお働きが、尽十方無碍光如来です。

続いて

「光如来」と申すは阿弥陀仏なり、この如来はすなはち不可思議光仏と申す。
この如来は智慧のかたちなり、十方微塵刹土にみちたまへるなりとしるべしとなり。(尊号真像銘文・註釈版聖典P651

阿弥陀如来のことを、不可思議光仏ともいわれています。
智慧のかたちであり、私を救おうとされる仏の智慧そのものであり、十方刹土に充満しておられるということです。

私を救う阿弥陀仏の智慧のお働きは、十方世界に満ちているので「待つ」ことは要りません。電車を待つのは、まだ電車が自分のいるホームに来ていないときのことです。目の前に電車があり、ドアが開いているのに、「待っている」という人はありません。
それでも「待つ」という人は、目の前の電車ではなく次の電車を待っているということになります。

すでにお働き下される阿弥陀仏ではない、何か別に自分で想像した阿弥陀仏に救われようとされているということになります。
ただ今、私だけに働いて下さっている阿弥陀仏にただ今救われて下さい。