安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「私がよく分からないのは「仏物(仏に恵まれた物)」と「阿弥陀仏そのもの」はどう違うのか、ということです。」(rさんのコメント)

rさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

(略)
私がよく分からないのは「仏物(仏に恵まれた物)」と「阿弥陀仏そのもの」はどう違うのか、ということです。 

たとえば「私たちは日々、阿弥陀仏の肉を食べて生きているのだ」という法話を聞いたことがありますが、このような表現には違和感を覚えます。
(略)
一粒にも阿弥陀様が宿っている、というような表現がありますが、まるでお米=阿弥陀様のようです。食事をするたびに、阿弥陀様をパクパク食べているような錯覚に陥ります。実際、そのように説く僧侶もおられますし。


ですが、そうではなくて「阿弥陀様はこのお米にも念力を入れて、衆生が仏になるよう働きかけておられるのだよ。だからお米も着物も紙切れさえも、大切な仏物なのだよ。私たちが無下に扱っていいものではないんだよ」と表現した方が、浄土真宗の教義からいっても、近いんじゃないかという気がしています。


yamamoyama様、このあたりについてはどうなのでしょうか。私は上述したように、仏の願いがかかった物=阿弥陀仏そのもの、という説き方に違和感があるのですが・・・。

それともやはり、お米もお肉も阿弥陀仏そのものであり、地球も宇宙も阿弥陀仏であり、私に憎しみ心があることを教えてくれる悪い人(戦争屋、殺人者など)までも阿弥陀仏なのでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20180416/1523856477#c1523899367

rさんの感じられる違和感については、私も同感です。
しかし、そのように「私たちは日々、阿弥陀仏の肉を食べて生きているのだ」という人の「言わんとすること」も直接聞いた訳ではないですが、同意します。おそらく、「阿弥陀仏に恵まれたものは、阿弥陀仏そのもの」という味わいから言われたものではないかと思います。それは、本人ではないので本当のところは分かりません。

阿弥陀仏は、尽十方無碍光如来と言われるように、阿弥陀仏のましまさぬところはありません。*1
その意味で阿弥陀仏のお働きのかかっていないものはないので、その意味でそれを阿弥陀仏そのものと言われるのも分かる話です。


阿弥陀仏の浄土に於いては、阿弥陀仏という仏も浄土も本願によって成就したものなので、その二つは別々のものではありません。浄土の蓮華も鳥も建物も、すべて阿弥陀仏の本願によって出来たものです。しかし、この私の生きる世界までも阿弥陀仏の本願成就のものではないわけですから、すべては阿弥陀仏であるというのは、味わいとして言われるのはいいのですが、事実ではありません。


例えば、蓮如上人の御文章には、

ただあきなひをもし、奉公をもせよ、猟・すなどりをもせよ、かかるあさましき罪業にのみ、朝夕まどひぬるわれらごときのいたづらものを、たすけんと誓ひまします弥陀如来の本願にてましますぞとふかく信じて、一心にふたごころなく、弥陀一仏の悲願にすがりて、たすけましませとおもふこころの一念の信まことなれば、かならず如来の御たすけにあづかるものなり。(御文章1帖目3通)

https://bit.ly/2JP37ah

と言われています。「猟・すなどりをもせよ」とは、魚を捕ることを生業にしている人は、それをしなさい。山にいる動物を狩ることで生計を立てている猟師はそれを続けなさいといわれています。もし、海の魚や山の猪やウサギが阿弥陀仏なら、蓮如上人は「阿弥陀仏を殺してもいいですよ」ということになってしまいます。その点で、蓮如上人は魚や猪を阿弥陀仏だと言われていません。


ここからは、私の日常思うことを書きます。
私は、2年前に急死した父親の跡を継いで生鮮食料品を扱う個人商店を経営しています。そのため魚市場へ足を運ぶことも多いです。そこでは、漁師の人がその日とってきた生きている魚をその場で生け〆する場面をよく見ます。生け〆とは、魚の頭部や尾の近くを切ることで仮死状態にすることです。その意味では、魚市場でセリにかけられる魚はみんな「生きて(仮死状態)」います。そういう魚を仕入れて、刺し身や切り身にするときは、生け〆が上手な魚は、頭をおとしたりするときに、身がブルブルと震えます。思わず念仏することも多いです。


その度に、自身は罪深いものだと感じます。その魚までも阿弥陀仏そのものとは私は言い切れません。もし、そうならば、私は魚も肉も食べることはできません。いわゆる「いのち」の現場と言うのはそんなに観念的なものではありません。他の「いのち」を頂かないと、私は生きていけないような存在なのです。そんなことをいいながらも、魚を食べると「美味しい!」と思う自分なのです。魚を卸すときに念仏しながら、その魚を食べるときに「美味しい」という自分はなんなのかと自問自答することも少なくありません。


私は、それらの魚を阿弥陀仏の願いが掛かったものとして見ています。日ごろ食べる魚も肉も、もともと生きていたのです。私はたまたま消費の現場に近いところにいるので、何を食べてもそれらが生きていた場面を思わない時はありません。しかし、だからといっていわゆるビーガン*2にはなれません。

なぜなら、単純に魚や肉は美味しいと感じるからです。その点ではこれこそ凡夫なのだと思います。それは、「凡夫ですが何か?」と胸をはっていう話ではありません。ただただ、他のいのちを頂いて生きてているだけの存在なのです。その意味では、私が口にする全ての命に申し訳ないと思っています。また、それを申し訳ないと思っていないことに申し訳ないと思っています。


またコメントにあった「私に憎しみ心があることを教えてくれる悪い人」を阿弥陀仏と無理に思うことはありません。ただ、「私に憎しみ心があることを教えてくれる悪い人」だと阿弥陀仏が私に引き合わせて下さったということです。それを自分の姿を知るご縁と思えばいいと思います。

*1:脚注 「帰命尽十方無碍光如来」と申すは、「帰命」は南無なり、また帰命と申すは如来の勅命にしたがふこころなり。「尽十方無碍光如来」と申すはすなはち阿弥陀如来なり、この如来は光明なり。「尽十方」といふは、「尽」はつくすといふ、ことごとくといふ、十方世界を尽してことごとくみちたまへるなり。(尊号真像銘文).

*2:ビーガンとは、絶対菜食主義者・純粋菜食主義者のことである。 http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D3%A1%BC%A5%AC%A5%F3